自分の話がしたくなる

昨日、一昨日と2日間開かれた第8回目となる大倉山ドキュメンタリー映画際。昨日だけ観に行くことができて伊勢真一監督の「妻の病」を観た。伊勢さんの作品が僕は好きで、よく観ている。よく、というのはより良くということでなくしばしばという意味だ。自分がより良い観衆であるかどうか、それはわからない。伊勢さんの作品はDVDで観るよりも映画館で観るほうがずっといいと思う。DVDでは、そこに流れている時間をつかみそこなうか、つかみかねるか、どちらにしろ伊勢さんの呼吸を感じ取れなくなると思う。この作品も、映画館で観るといいと思う。
伊勢さんが上映後のトークで“この作品を観た人が書くアンケートには、他の作品にもまして自分の身の上の話を書いてきてくれる人が多い”、という趣旨のことを語っていた。実際、そう思う。僕も観終えた後、すぐには何も言葉にできなかった。いまもって何か言葉がでてきたわけでない。それでも僕の、下手をすれば愚痴に落ちかねないところでへどもどしながらも、何がないいたい、自分の話がしたくなる、それをとどめられない。

人を愛すること深ければ、悲しみもおなじほどか、それ以上にか深くなる。映画を観終えた帰り道、歩きながら友部正人さんの「仲のいい二人」という曲が頭に浮かんだ。この曲を友部さんのライブで初めて聴いた時、僕は友部さんが妻にあててつくった曲だと思った。あたり前のように、そう思った。でも、昨年12月に発売された『雲遊天下119』(ビレッジプレス)に友部さんが書いていた「『仲のいい二人』−現在進行形の歌」という文章には、友達の夫婦のことを書いた曲なのだと書いてあった。

  

そして終わりに、こんな風に書いていた。

 「ぼくは君(亡くなった夫のこと:小生注)が奥さんの膝の上で、まるで猫が眠っている
  ような感じで死んだと聞きました。死んでいるのではなく、『ちょっととなりに』行っ
  ているような感じだったらしいです。だから今でも『仲のいい二人』が一人になったよ
  うな気はしないそうです。」

この曲には、「仲のいい二人が一人になったらどうなるのだろう」というフレーズがある。「妻の病」のいろんな場面を思い出しながら帰る道すがら、「どうなるのだろう」の一語が切り抜かれて、僕には浮かんできていた。

平成乙未 弥生三十日
宍戸 大裕