札の付いてない不良だって

さきごろ、世田谷文学館で開催中のコレクション展「作家たちの戦中・戦後」を見てきました。
世田谷文学館HP http://www.setabun.or.jp/
目あては、中野重治の肉筆原稿ですが、実に良かった。
そこで初めて知ったのですが、筑摩書房の編集者に石井立(たつ)さんという方がいて、その方が『人間失格』などの晩年の太宰治の作品と、中野重治の作品の編集をされていたのでした。私、このふたりの作家が好きなのですが、編集者が同じ人だったと初めて知りました。
なぜこのふたりの作家に惹かれるのか、その理由のひとつにもしかしたら、この石井さんという方の人柄が作用してる気がして、惹かれる理由の根っこに触ったようなよろこびを感じました。1964年に40歳で亡くなられていて、今回ご遺族が、中野さんの原稿を文学館に寄贈されて、拝見することができました。石井さんとご遺族の方々に心より感謝です。

6月19日のきょうは、桜桃忌。太宰さんの遺体が玉川上水で見つかった日です。
先日「斜陽」を読んでいて、こんな一節ありました。

 「札つきなら、かへって安全でいいぢゃないの。鈴を首に下げてゐる小猫みたいで可愛らしいくらゐ。札の付いてゐない不良が、こはいんです。」

札つきの不良が安全で、札のついてない不良が恐い。思い当たりませんか。私、思い当たります。
自分自身の悪辣さ、冷酷さ、残酷さに自覚のない人って、恐いんです。自分が善人だと思ってる人。善人でないにしても「普通」だと思ってる人。要するに、自分自身のワルサに無自覚な人、恐いんです。残酷で、冷酷なんです。こういう人こそが。太宰さんの書いてるもの、(こんな言い方それこそまったく古いのですが)いまも新しいと思います。

おなじ、「斜陽」の中にこんな一文もありました。

 「陰気くさい、嘆きの溜息が四方の壁から聞こえてゐる時、自分たちだけの幸福なんてある筈は無いぢゃないか。」

こういう科白が作中に出てくるところに、中野さんの作品と通底しているものを感じるし、中野さんの作品と同じように奮い立たせられるある気迫を感じるんです。勝手な読みなのかもしれないのですが。たぶんそうでしょう。いや、でも、あながち勝手でもないかもしれません。どう読むか、読んでそれをどう自分が自分に落としていくかということから見て、勝手なこともないと言いたくなるものがあります。

世田谷文学館でのコレクション展は9月15日までです。7月16日からの企画展は、「生誕100年 映画監督・小林正樹」。かならず行きます。