坪内先生

坪内先生と最後にあったのは、もう7年も前のことだろうか。三軒茶屋の住宅街の路地で、偶然にすれちがったのだった。僕はその頃初めての劇場公開映画の宣伝のために渋谷へ行くところで、身内の住む三軒茶屋の家に身を寄せていた。先生は、あとで知ったことだが、三軒茶屋に暮らしていたという。そこでばったり会ったのだ。

「先生」と思わず呼びかけると先生は立ち止まり、どんなそぶりや表情をされたか思い出せないが、「ああ、いまどうしてるの?」くらいの言葉は交わしてくれたような記憶がある。わずかの立ち話をすると用事があるような急ぎ足で、先生は路地の向こうへ歩いて行かれた。その背中に、「『SPA!』いまも読んでます」と声をかけると、前を向いたままちょっと頭を斜めに下げて、応えてくれたようだった。

 

大学4年の時、坪内祐三先生の授業を受講した。その頃僕は評論家の福田和也さんが好きで、福田さんの著書を読んでいるとしばしば先生が登場していた。先生が大学で講義の枠を持っていることを知り、受講すればいずれ福田さんに会えるかもしれないという下心だけで通い始めた。授業は6限で、終れば希望する学生へ先生が呼びかけて、大学近くのそば屋「金城庵」で酒を呑みながら話をするという流れだった。金城庵はその昔、三島由紀夫が盾の会を結成した場所だと、先生からだったか誰からだったか、聞いた。学生は参加費1,000円で、のこりの食事代は先生や参加していた大人のだれかれが払ってくれていた。

 

ある日の授業で、先生は「中野重治という人は複雑な人で」と言った。夜の金城庵で僕がその意味を尋ねると、「江藤淳の『昭和の文人』を読むといいよ」と教えられた。そして読んだ。江藤淳も福田さんとともに好んで読む作家のひとりだった。それは面白かった。江藤淳が面白く、中野重治が面白かった。それから中野重治も読むようになった。

 

秋だったか、もう冬になっていたか。雑誌『SPA!』の連載を持っていた先生と福田さんが、金城庵で学生に囲まれて話す会が開かれることになった。憧れの作家、福田和也に会える喜びにうちふるえ、その夜、たしかに福田さんが来た。感激した。先生は学生に対しても心配りの届いた人だった。よく学生を観ていて、よく覚えていた。「宍戸さんは福田さんに会いたくて僕の授業受けてる人」と言って引き合わせてくれたように覚えている。福田さんは、ふふふという感じですこし笑みを浮かべていた。学生がひととおり自己紹介をすることになり僕の番が来て、「福田さんの本を読んでいます。福田さん、ぜひ盾の会をつくってください」と言った。「え?なに?盾の会?」。場に苦笑いの空気がただよった。僕はその頃三島由紀夫の追悼式・憂國忌にも参加するような、“慷慨の士”で、日本には三島が学生とともに起ち上げていた盾の会のような組織が必要だと考えていた。福田さんは、「僕はそういうのはやらないよ」と軽くいなされて、話は他へと流れていった。

 

翌週の金城庵でだっただろうか。先生からこう言われた。「宍戸さん、自分でやらなきゃ」。さりげなく諭すというようでもあり、心持ち煽るというようでもあった。

その頃僕は、野村秋介に憧れていて、節目の折には伊勢原へと墓参りに行っていた。そのことを話すと「じゃあ野村さんについて書いてみなよ、何でもいいからまとまったものを書いてみたら」と言うのだ。「どんどん書いたらいいよ。書くことだって行動だよ、行為だけが行動じゃないよ」。そんなことも言われた。だが、書けといわれても何を書けばいいのかわからない。書き出してもきっと、「きょう野村さんのお墓を訪ねました。野村さんはすごいと思います。おわり」。子どもの絵日記になるのが目に浮かんだ。何も書けないまま、時だけすぎた。

 

何も書けなくても、先生の話は聞きたかった。鶴見俊輔さんのご子息で、歴史学者鶴見太郎さんが招かれた夜もあった。先生は、「彼は死に場所を探している人です」と僕を紹介した。授業にも金城庵にも、毎回通っていたわけではなく、しばらく間があいて思い出したように顔を出す、そんな参加の仕方だったのだが、先生はよく人を覚えていた。そして、わいわい酒を呑みながらも、静かな表情の奥で人のを見据えて、さらりと的確な指摘をした。

 

ことしの24日。河北新報朝刊をめくっていると、「坪内祐三さんを悼む」という見出しにコラムニスト・中野翠さん記名の記事を見つけ、息を呑んだ。先生の写真が載せられている。それは追悼記事だった。113日に、61歳で亡くなられたとある。信じられない、とこんな時よく言われるが、まったくそれは信じられなかった。すぐにネットニュースを検索した。しかしそれは、どうやら事実だった。 

先生とかわした数少ない言葉をたどりたどりしては、思い返していた。浮かんでくるのは大学の教室ではなくて、いつも金城庵だった。6月、気まぐれに立ち寄った盛岡の大通りにある本屋の文芸誌コーナーに「ユリイカ5月臨時増刊号 総特集 坪内祐三」を見つけた。表紙に先生の懐かしい顔があった。やっぱり、先生はもういないのだ。

ユリイカを買って近場の居酒屋に入り、酒を頼んでページをめく福田和也さんの追悼文がよく、絓秀実さんの追悼文がよく、赤井紀美さんの追悼文がよかった。

 

僕の思い出はまったく少ない。けれど少ない思い出の中にやはり先生が忘れがたい。「自分でやらなきゃ」とそそのかされた時、僕は自分でやるということの意味がわからなかった。だが、自分でやっていいんだという新鮮な驚きと、たきつけられたような興奮はっきりとその日、胸の内に残ったのだった。

 

いまでも時に上京すれば金城庵に立ち寄ることがある。混み合っていてもまばらでも、店の奥まったあたりに16年前の賑わいの声が聞こえる。先生が見据えてくる静かな眼差しを、僕はその度に受けとっている。

 

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