署名はじまる

津久井やまゆり園の正門前に立つと川をはさんで正面の森にレジャー施設がみえる。観覧車がありアトラクションがある。6日に園を訪ねると建替工事は佳境をむかえ、まもなく完成という段になっていた。アトラクションが動きだすと歓声が山あいに届いた。動いているのを初めてみた。

園の目と鼻のさきにある食事処に入ると、ちいさな店内に客と店員の会話が聞こえる。やまゆり園の工事作業員は大盛りを注文してくれるとか、ここらも子どもが少なくなっていまでは小学生が5人しかいないとか。

店をでてまた園の方へとむかうと、遠くサイレンの音が響いてくる。しばらくすると相模湖駅方面へ走り抜けていく1台の救急車。疾走する車体を眺めやりながら、七月の夜の情景がむやみに想起される。いたはずもない夜の救急車。

死者の語りを聴きたいと思う。一方で、聞く準備がひとつもできていないとも思う。腹に力をこめて受けとる、覚悟のようなもの。どこにある。

『なぜならそれは言葉にできるから』(カロリン・エムケ、みすず書房)という本を見つけて読む。「言語に絶するものは、囁き声で広まっていく」。「被害者から主体性と言葉とを奪うことは、犯罪国家の意図のひとつだ。被害者を没個性化し、孤立させ、最終的には非人間化することーすべてが、権利剥奪と暴力のメカニズムの一部である」。

ページを繰るごとに線をいくつも引いていく。どこが大事かわからなくなる引き方。
沈黙する被害者や犠牲者の沈黙をどう考え、向きあい、言葉の出るのを待つかが書かれている。沈黙を利用し、物語を隠蔽し改竄し捏造する者たちのことが書かれている。そして檄を飛ばされる。言葉をうしなったようにみえていても語りがはじまるときはある。問われているのは聞く人がそれを聞けるかだ、と。

津久井やまゆり園におけるパラリンピック採火に反対する署名がはじまった。文面に思うことは多々あるけれど署名する。

 

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事件からあと、語るべきひとがいまだに語っていないと思いつづけている。

聞くひとがいないのか。聞けるひとはどこにいる。

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