その人をおもう

年の暮れにその人は突然眠ってしまった。ちっとも起きてこなくなってからこっち、ずっと真っ白だった。長くて悪い夢は、何度眠りまた起きてもつづいた。つめたくなった頬にも手にも触れて、花でいっぱいになった棺もみてお骨を拾ってもなお、夢をみているよう。このまま深く眠ったら、その人のいた世界に戻れるだろうか。年の明けた気がまるでしないまま、おーいどこいったー、はやくかえってこーいと繰り返していた。その人がもういないということが不思議でおかしくて、誰に向けるいわれもない理不尽さに腹を立てたりいまここにいるはずの自分が不思議でならなくなったり。仕事も手につかない無為の日をおくっていた(関係者の皆さん、ごめんなさい)。


ずっといっしょにいて僕にはお守りのような人だった。どうしたらまた会えるものかと思いめぐらしていた時、恐山のイタコを思いつく。けど、調べてみるとイタコは冬は休みで夏と秋のひとときだけおられるとか。そんな先まで待っていられるはずもなく思いあぐねているとその人の血縁に修験道を勤めた高僧がおられたことを思い出し「そうだ、巡礼がよい」と思いが決まった。東北三十六不動尊を歩きめぐり、その人がどこへいってしまったのか、いま自分はどこにいるのか、それぞれの位置をたしかめるための旅を岩手からはじめることにした。


盛岡をはじまりに歩きだすと、内陸はまだまだ道に雪が積もっている。霊場をめぐる旅にとくに決めごとはせず、目についた神社仏閣にも手を合わせただ歩いていく。


「はやく戻ってきてください。そっちで人手が足りない時はいつでも呼んでください」。


願いはたいていこのふたつ。歩き慣れず2日目には足が痛みはじめ、引きずるようになり、歩度は遅くなるばかり。それでもかまわず、見渡すかぎりの雪原になった田んぼの一本道をひた歩いていく。花巻の大興寺という寺の本堂に立った時のこと、柱に漢詩とおぼしき文字が連なっていた。好い加減なところへレ点をつけて読もうとするも、ちっともわからない。禅寺なので公案かしらと宿でネット検索をしてみると良寛の詩「出山釈迦」だった。人が迷い、執着を起こすことのなんと多いことかという意で、釈迦ですらもということが含まれていた(『訳註 良寛詩集』ワイド版岩波文庫)。尋ねたいことがあって歩いてきた寺の門をくぐって、こっちもわからないんだと拍子抜けする答えが返ってきた気がして、そうかあなたもだったかと清々しく笑ってしまう。


この季節、歩道が雪に埋まっていたり片側一車線の道にそもそも歩道がなかったり、徒歩ではとてもわたりきれない峠道もたくさんある。そんな道が何キロもつづいているところでは電車で移動する。夜の1両電車の曇った窓を手で拭いて、真っ暗な窓外を眺めるとここを歩いて行き来した昔の人のたくましさに畏怖をおぼえる。遠野の路傍では積もった雪からちいさな石碑や石仏がさりげなく顔を出していた。その下には江戸の死者が眠っているようで、並んでなければ自然石と見過ごしてしまう。夏は草に隠されてしまうのだろうか。やがて歳月の風雪にあらわれて彫られた名や年号ものっぺらぼうになり、だれも気づくことのない自然石に帰っていくありようは死者も生者もなく、ひとつの「いのち」が時に溶けだしているようで、安堵する。


人がつつましく、そうあるよりほかなかった昔を思いやりつつ海沿いへ足を進めると、どことなく春が目覚めたと感じる陽気だった。でも。海の見えるところまで来たとたん、地平に定規をあてたような白っぽい壁が横一線に空を限り、海を隠してしまっていた。震災後につくられた巨大防潮堤が居丈高にそそり立ち、冷たく固いコンクリートが人間を圧倒している。時へとにじみだしていた遠野の石のように、このコンクリートが人間に親しい点景となる日はくるのか。


釜石のお寺では丘のふもとからてっぺんまで墓石が並んでいた。3.11で亡くなられた檀信徒の名が二枚のおおきな石に刻まれている。並んだ名前が多すぎて息をのむ。この寺までも水は来たようだ。急な階段をのぼり丘の上まであがると陽光をはね返す海と、造船所が目に入る。墓石の戒名を読んでいく。敗戦のあとの数年とそれより以前、早世した子どもの多いこと。当才、二才、三才という享年が印され童子童女という位号も目につく。こんなにもあっさりと、人はこの世から奪われていくものだったか。


死者はどこへ行ったのか、生者はどこにいるのか。そもそも生も死も、あるのかどうかすらわからない。みんな死ぬという平凡な事実ももっとも身近な人のそれとなるとまるでおなじことと思えない。切実すぎて、われながら怪しむ。神社といい寺といい畢竟死者をめぐって歩いている。生者との一期一会の目礼すらも心にとまる。


もうこの先どんなことがあってもその人とは会えないのだと思って途方に暮れたり、いやいやここにいるじゃないかと思って安心したり。そんなことを繰り返す。それでも、こうして文字を連ねるほどには、日を送ってきたのだろう。三十六寺のうち回れたのは三か所。世間へ仕事へと戻りながら、わからないことを探しもとめたい。


やっぱりもういちど会いたいし、声が聴きたい。もうすぐ四十九日がくる。おーい、はやく、かえってこーい。

 

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