understand 下に立つ

拝啓
平成二十四年、新しい年もどうぞよろしくお願いいたします。
映像制作をする上では、カメラを向ける相手のことをより深く、より隅々までも理解したいと思うものだと思います。そして、理解する、ということを考える時何を以て相手を理解したと云えるのかが問われると同時に、相手を理解しようとするその態度もまた、問われるように思います。

昨年の3月19日、私は東京の勤め先から実家のある宮城県名取市へ、職場から長い長い休職期間をいただいて、3人の知人と帰ってきました。当時、東北への道の多くは寸断されていたため、帰り道は東京駅から新幹線で新潟駅へ向かい、新潟駅からバスで仙台駅へ向かうという迂回道を採りました。
午後13時過ぎに仙台駅へ到着すると、鉄道もバスも通っていなかったためタクシーを拾い、名取市の避難所の一つとなっていた市の文化会館へ向かいました。とりあえず、持てるだけの食料品や乾電池、衛生用品などを届けることしか頭になく、それからどうしようかといった考えは何もないのでした。
その、文化会館へ向かったタクシーの中でのことです。運転手のMさんという方は名取市消防団にも所属していたそうで、震災直後から現場に入ってけが人や行方不明者の捜索に当たっていたそうです。その頃の様子を伺う私たちに、Mさんは静かな声で訥々と、話して下さいました。その内容は想像の範囲をはるかに超えていて、私たちには返す言葉もなく、わずかに呻き声を以て、確かに話を聞いていることの答えと代えることしか、出来ませんでした。そんな私たちの反応を見て、退屈させていると誤解されたのか、Mさんは慌てながら「すみません、自分ばかり喋って」と謝られました。実際は、退屈どころでなく、想像もつかない話に、みな戸惑っていただけでした。
そのMさんの慌てる様子を目にした時、私は初めて、今回の震災が起きた場所が、東北であるということを実感として感じたように思います。
言葉少なに事実だけを、形容詞も感嘆詞もなく、表情も変えず、わざとらしい大げさな構えや衒いはなく、坦々と話している。だから、うっかりするとこの人々が何を考えているのか、分からなくなってしまう時があるかも知れません。無言や無表情が自然な人々ですから、下手をすると、何も考えていないのだとせっかちにも思われてしまう虞もあります。
話の途中、初めて現場に立った時の様子に話題が至ると、「もう…、(遺体が)ゴロゴロという感じで…。」と語るや、いっとき目を赤らめました。その一拍後に、先に紹介した「すみません、自分ばかり喋って」という言葉が続きます。その慌てる慌て方に接した時、自分が記録に残すべきはこういう人々の姿なのだと、強く感じました。
言葉が少ない人や、表情の乏しい人の心は、どういう風に理解したら良いのだろうかと考える時があります。その人が心に持っている言葉を、「こうですか?」「それとも、こうですか?」と少しずつ尋ねていくこともひとつの方法だと思いますし、一緒に長い時間を過ごすなかで、ポツリと出てくる一言を、待ちつづけるということもひとつの在り方だと思います。間違っても、「あなたの考えはこうでしょう」、と無遠慮に押し付ける言葉だけは、逆さになっても出てこない人間でありたいと思います。

2年前のこの季節、北九州ホームレス支援機構代表の奥田知志さんが、北九州の公園に立ち、機構の生活相談に訪れた人々へ向かい、「私たちにも何か役割を下さい。せっかくですから、一緒に生きていきましょう」と呼びかけているのを、朝のNHKニュースで観ました。その、奥田さんの言葉に涙がこぼれ、私ものち東京・山谷地区で奥田さんがされているのと同じような仕事に就くことになりました。
あの時の奥田さんの言葉には、相手をより深く理解したいと思い、もっとあなたを知りたいと伝える時の、人の姿勢の在り方が示されていたように思います。
それは、understand、下に立つ、という佇まいです。相手を理解する(understand)には、下に(under)立つ(stand)ことだと、教えてくれました。

年頭に当たり、このunderstandを、心に刻みたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。


                                                   敬具

平成壬辰 正月元旦
宍戸 大裕