表現の自由をみずから擲つうつけもの

福島県の行政当局にセンスを感じたことはいままで一度もないのだけれど(センスを感じないこととナンセンスは違うことなのだからそれはいいのだけれど)、今回はナンセンスだった。しかもそれが極まりない。

公務員には憲法を守る義務がある(99条)。憲法が保障する表現の自由(21条)ではその1項に「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とある。
「一切の表現の自由」とある。そしてこの表現の自由は、「国民の権利」であって、行政当局の権利ではない。

漫画「美味しんぼ」の内容への福島県の「抗議」は、”断固容認できず、極めて遺憾であります”と書いている。容認できない、とはずいぶん思い切った言葉遣いをする。しかも「断固」と、懐かしいフレーズまで枕についている。国民の表現の自由に「断固」介入していく行政当局とはなんなのか。99条の憲法尊重擁護義務に反するおそれがあることすらも考慮に入れた上での、最終責任者たる佐藤知事が自分の首をかけた、肚を決めた抗議で果たしてあったのか。

インターネットやSNSの普及によって、様々な表現活動に対する”正論武装”した(つもりの)「抗議」がやたらに幅を利かせているように感じる。インターネットでのお手軽な抗議文掲載、なんてものがなかったひと昔前は”直接行動主義”がもっぱらだったように思う。直接行動主義だからこそ、抗議する者には自分を擲つ覚悟があった。死ぬ気でぶつかっていき、事実死んだ人もいた。自らを擲つことで、その表現に代えるという態度があった。それでもその表現は往々にして黙殺された。
いまのお手軽抗議の流行は、机の前でお菓子をポリポリつまみながら、インターネットに「抗議文」を投げつけることで完了し、結果として擲たれているのは自分自身の存在をかけた言論などではなく、表現の自由そのものになっている。

誰かが何かを表現し、それに対して誰かが賛同し、或いは反対する。それが自由に行われることを日本国憲法は国民に保障している。福島県知事も日本国民のひとりであるのだから、佐藤さんに表現の自由はある(当然)。だから、佐藤さんが一個人、あるいは私人と言えるのかどうかは大いに疑問なのだけど、仮に佐藤さんが佐藤さん個人として「断固容認できない」と思い、そう表現することは認められる(これまた当然に)。

だが、今回の抗議文は「福島県」と行政当局名で出されている。つまり佐藤さんは一個人としてでなく、疑いようもなく公人として抗議したのだ。それは、憲法を尊重すべき公務員による、個人の表現の自由を侵害する行為にあたるのではないか。(これに関連して、大阪府知事が「表現の自由があるので事実であれば抗議しない」と述べていたが、事実の有無に関わらず表現の自由は保障されるのだ。)

福島県が抗議すべきは、ひとりの表現者に対してではなく、事故の危険性を放置しながら原発をつくりつづけてきた歴代内閣、自民党東京電力、事故の反省もなく再稼動を進める安倍内閣に対しててあるべきだ。すべての国民に保障された表現の自由を侵してまでも、安易な「抗議」などをすることは、やがては福島県民だけでなく、すべての日本国民(行政当局者も国民のひとり!)の表現の自由を弱体化させることにつながっていくのだ。

僕自身、2011年に警戒区域へ撮影に入った後は、決まって1日2日、身体が熱っぽかった。一緒に入ったある女性は、帰宅後歯茎から血が出ていた(いままでそんなことはなかったと本人談)。それをどう考えるかは、人それぞれであっていい。憲法は人それぞれであっていいということを保障しているのだ。

あなたの意見には反対だ。でもその意見をあなたが表明する権利をわたしは全面的に認める、という態度が表現の自由の本質だ。

冷静に、あくまでも冷静に。

平成甲午皐月十二日
宍戸 大裕