革命家とその母たち

拝啓
前々回に少し触れた「ブラザー軒」の作者・菅原克己さんの詩集を図書館から借りてきました。『菅原克己全詩集』という一冊で2003年3月31日、神田神保町の西田書店から初版が発行されていました。西田書店の紹介によると現在は第4刷となっていて、A4版515頁の本です。
(西田書店・著書紹介URL http://www.nishida-shoten.co.jp/view.php?num=43

年譜によると菅原さんは1911年(明治44年宮城県亘理郡亘理町に生まれ、12歳まで宮城県内に暮らしていたようです。また、10代後半には詩や共産主義と出逢い、1955年5月の項には「籍だけになっていた新日本文学会に復帰、(中略)中野重治佐多稲子などと親しくなり、編集長野間宏、副編集長長谷川四郎の二人にはいろいろな面で啓発された」と記されています。

詩集を読んでいると、つなげた言葉の柔らかさの中に菅原さんのやさしさや、それでいて背筋の伸びたところが見えてきて、「ブラザー軒の作者」という位置をはるかに越えていきそうな感触を覚えます。まだはじめの方しか読めてはいませんが、その中でも印象に残った詩として、「手」、「母について」というものがありました。
「その手が警察から俺をかばった」にはじまる「手」、「―桂小五郎のようなもんだ、母はため息をつくようにして言い言いした」にはじまる「母について」。どちらも、共産主義者となった子を持った母のことを書いています。

ここで想起されるのが、1955年に「親しくなり」と書かれていた、中野重治菅原克己さんの共通点です。どちらも日本共産党員でありながら60年代前半に除名されたことや、やさしさと骨っぽさがひとつのものとなっているところの詩作品などに、それを感じます。共産主義者となった子を持つ母を詠んだ詩というと、中野重治の「その人たち」を思い出さずにはいられません。

  娘が娘であったためにうけたテロルについてききながら その母親が母親であるために
  それ以上話させることの出来なかったその焼けるような皮膚のいたみ
  そして息子に手紙を書こうためいろはから手習いをはじめたその小づくえの上の豆ランプ

共産主義に限らずあらゆる「主義」は人間を人間から遠ざけていく魔物のような働きをなし得るものと思いますが、主義を実践しようとする「主義者」たちが、主義者である前にひとりの人間として、そこにある親子の情愛を確かに生きていて、その情愛は何ら世間のそれと異なることなく滔滔として流れていたということは、例えば何らかの「主義」と向かい合う時に、その主義とは別な話として、大切に考える必要のあることのように思います。

日本共産党機関紙「しんぶん赤旗」は普段、人間の「情」というところを考える上においては読むところ少ない新聞だと思いますが、それでも一昨年の5月8日、「母の日」の特集に党の参議院議員候補者6人が自分の母について語った記事は、いま読み直してみても面白い、情にあふれた内容でした。中でも、市田忠義書記局長のご母堂が、「少々悪いことをしてもいいが、アカだけにはなるな」と市田氏にいい続けながらも、自身戦争で4人の子を亡くされたことや、その戦争に対し、党が反対しつづけていたことを知り、息子(市田氏)のやっていることに間違いはないだろうと考え80歳で入党された話。田村智子議員のご母堂が学生運動をする娘に、困ったような切ないような表情を浮かべながらも、娘の意思を尊重し娘を見守り続けていたこと、そして時が経ち、党の候補者として娘が演説会の場に立った日から10日ほど後に、「自分で選んだ道をしっかり歩んで成長する姿をうれしく見てました」と、母から一筆が届く話。こうした話は、革命以前にあって、革命以前に大切なことという風に思います。それは、ローザ・ルクセンブルクが獄中から友へ宛てた手紙がとても大切であることと同じように、大切なことと思います。
                                       
                                                 敬具

平成壬辰 卯月六日
宍戸 大裕