車輪とねずみ

拝啓
山之口貘さんに「ねずみ」という詩があります。とてもいい詩です。

 ねずみ 山之口貘

  生死の生をほつぽり出して
  ねずみが一匹浮彫(うきぼり)みたいに
  往來のまんなかにもりあがつてゐた
  まもなくねずみはひらたくなつた
  いろんな
  車輪が
  すべつて來ては
  あいろんみたいにねずみをのした
  ねずみはだんだんひらたくなつた
  ひらたくなるにしたがつて
  ねずみは
  ねずみ一匹の
  ねずみでもなければ一匹でもなくなつて
  その死の影すら消え果てた
  ある日 往來に出て見ると
  ひらたい物が一枚
  陽にたたかれて反(そ)つてゐた


昨日、鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画六ヶ所村ラプソディー」を初めて観ました。作中、核燃料再処理工場の運転に反対する人が、六ヶ所村民12,000人のうち、反対運動をつづけてきた菊川慶子さんら数人になってしまった、という趣旨のナレーションがありました。
12,000人と、数人。
街に出て市民に話を聞けばほとんどの人が再処理工場の内容を知らず、またどこで誰が何を決定したのか、その決定過程に参加する方法があるのかどうかも知りません。知らないはずです。決定するまでの過程や具体的な内容は、すべて再処理を進めようとする勢力の胸先にあるのですから。

ハンナ・アレントは『暴力について』の中で、「官僚制度とはすべての人が政治的自由や行動の権利を奪われる政治の形態である。(中略)すべての人が平等に無力であるところには、暴君のいない専制が行われているのである」と述べていますが、12,000人の村民のうち反対する人が数人しかいないという状況は、再処理推進勢力がこの村に、暴君のいない専制をほぼ完成させている状態と云えるのではないでしょうか。

本当のことを知ろうとする者、本当のことを知ったがゆえに反対の声を挙げる者をつかまえて、「あんた過激だよ」と諭したつもりの恥知らず。その「穏便」なはずの恥知らずの後ろに居並ぶ、黒いジュラルミンと警棒の群れ。

僕たちが自分自身の目をこらし、耳を澄まし、真実を生きようとする限り、つまり自分自身を生きようとする限り、その向こうにはおそらくいつも、あの黒い連中と、恥知らずの連中が控えているのかもしれません。そして連中たちは、車輪のように無機質な回転で、僕たちをねずみのようにのして回ろうとするのでしょう。

車輪とねずみ。車輪はすべっていってはどこかへ消えてなくなるけれど、ねずみはのされて陽にたたかれても、その場でも一度反りかえる。日本には、もっとねずみが必要です。

                                                 敬具

平成壬辰 皐月八日
宍戸 大裕