拝啓
中野重治には「上等ということ−志賀直哉−」という短文がありまして、その書き出しは次のようなものです。
「いいにはいいが上等というのとはちがうということがある。志賀さんの場合はどうしても
上等の方になる。そう思う。」
「上等な」志賀さんのどこが上等かということについて、中野重治は「私の知るかぎり、はからいのないということが、どんな場合にもそのままに志賀さんについての確かな事実だった」と同じ文章の中に書いています。はからいのない志賀さんが「上等な」志賀さん、そう読めるのです。はからいのないこと、すなわち上等という人間観は今の時代ではあまりしっくり来ないのかも知れませんが、ひと昔前の日本では一般的な人間観だったのかもしれません。
夏目漱石の小説『吾輩は猫である』では、猫に人間の「上等」を語らせている一文があります。
「今の世の働きのあるという人を拝見すると、嘘をついて人を釣ることと、先へ廻って馬の
眼玉を抜くことと、虚勢を張って人をおどかすことと、鎌をかけて人をおとしいれること
よりほかに何も知らないようだ。(中略)こんなごろつき手に比べると主人などははるかに
上等な人間と言わなくてはならん。意気地のないところが上等なのである。無能なところが
上等なのである。猪口才でないところが上等なのである。」
或いはまた、『坊ちゃん』にも次のような一節があります。
「赤シャツがホヽヽと笑ったのは、おれの単純なのを笑ったのだ。単純や真率が笑われる
世の中じゃしようがない。清はこんな時に決して笑ったことはない。大いに感心して聞いた
もんだ。清の方が赤シャツよりよっぽど上等だ。」
夏目漱石は慶応3年から大正5年まで生き、中野重治は明治35年から昭和54年まで生きました。平成のいま、はからいのないこと、意気地のないこと、無能なこと、猪口才でないこと、単純や真率を笑わぬことが上等だという感覚が無効になったとは、僕は思えずにいます。
「木瓜(ぼけ)は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守るという人が
ある。この人が来世に生まれ変わるときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。」
−『草枕』−
木瓜になりたい人はいまも日本の隅々に息づいていることを、いつも感じています。
僕もその一人です。
敬具
平成仁辰 文月十五日
宍戸 大裕