「クラゲごとき」と人間ごとき

拝啓
大飯原発再起動から8日目。
夜のNHKニュースを見ていたところ、大飯原発で冷却水として取り込むための海水の取水口からクラゲを大量に吸い込み、出力が低下した、という報道がありました。その中で大飯に常駐する経産副大臣氏が、「科学技術の粋を集めた原発で、クラゲごときに惑わされてはいけない」といった趣旨の発言をされたことが紹介されていました。

「クラゲごとき」。

「ごとき」という言葉を広辞苑に当たってみました。「似ている、ひとしい」や「したがう、その通りにする」という意味があり、また物事の例を挙げる際にも用い、その例文として「時政・宗遠・実平ごときのをとな共を召して」(延慶本平家五)という一文が挙げられていました。

こうしてみると、「〜ごとき」という言葉遣いには本来、「〜のような」という以上の意味は含まれていないようです。とすれば、「〜ごとき」という云い方は、その「ごとき」を発する人が言葉に含めたニュアンスにその意味を負うところが大なのでしょう。氏の発言を聞いて僕が感じたことは、氏がクラゲを「くだらない、小さな存在」だと見なしているということです。「いや、そうではない」と氏が反論されることは辞書の上では可能ですが、ニュアンスや「ごとき」に続けた言葉を聞くところによると僕と似た感じ方をされる方は少なくないと思います。


  朝焼小焼だ 
  大漁だ
  大羽鰮(いわし)の
  大漁だ

  浜は祭りの
  ようだけど
  海のなかでは
  何萬の
  鰮のとむらい
  するだろう
                    -「大漁」 金子みすゞ-


氏に対して、僕はあまりにも有名なこの詩を伝えるとともに、このような詩人を生みだしたわが国の人間の道統について、考えていただきたいと思います。権力を執行する立場にある為政者の言葉遣いとして、同時代の、近き処に息づくひとつの生きものを名指して、軽蔑を込めて「ごとき」とつづける。そうした品下った言葉遣いを公然と行える人が権力の中枢にいるということが、現在のわが国が直面している、国と国民にとっての不幸の深さを、ありありと教えてくれているように思うのです。

クラゲという生きものがどんな生きものなのか、僕はあのふわふわと海に浮かぶ形しか思い浮かばないくらい、良く知りません。だからこそ、クラゲに対して貶めた言葉遣いをする気にもなりません。良く知っていればなおのこと、「ごとき」という言葉に蔑みの意味を込めてひとつの生きものを指す気にはならないのかもしれません。山川草木悉有仏性という情操の欠落や、「たかが一個の人間ごとき」という謙虚な心をなくし、人間であることに思い上がったことが、原発事故を引き起こした大きな原因であることを「クラゲごとき」と蔑む人にこそ識ってもらいたい。放射能を垂れ流し、海を汚しつづけている人間が、その汚れた海でしか暮らせない生きものを指して「ごとき」なんて云ってはいけない。

原発に限らず、発電所の取水口から取り込まれてしまう生きものが日常的に多数いる現実は、僕らに対して、海の中では生きものたちが今日もとむらいしてるだろうと想像することを強いてくるし、そうした想像が強いられないというのであれば、ずいぶん頼りない話だとも思います。

いま、大飯原発周辺で抗議をするのは人間だけじゃない、クラゲの仲間たちも海の中で抗議の一団を形作っているかもしれない、そういう想像力が働く政治を持てたら、僕らの国は今よりずっと伸びやかに呼吸ができる、おおどかな国に姿を変えていくのかもしれません。

                                                       敬具

平成壬辰 文月九日
宍戸 大裕