条件反射みたいに

井上ひさしさんのつくる芝居には、悪人が出てこない。
権力者、悪党、ずるい奴ら、いろいろいる。そういういろいろが純粋で優しくてまっすぐな人間を痛めつけたりする。そういうことはある。でも結局のところ、権力者、悪党、ずるい奴らが、どこか憎めない姿を見せはじめる。時には音楽にあわせ一緒に踊ってみたりする。それが見ていてうれしく、たのしい。
『頭痛肩こり樋口一葉』では、幽霊が恨む相手を探し尋ねて人から人へ辿っていくものの、結局相手が見つからず私自身という振り出しに戻ってくるくだりがあった。こういう話が読んでいて助かる。世間を見れば、この逆があふれるほどに多すぎるから。

力づくで踏み潰される人。
どんな思いだろう。
故郷が蹂躙されていくのになすすべもない人。
どんな思いだろう。
ありとあらゆる力づく、暴力づくでもって、体ごと心ごとひっぺがえされ踏み潰される人。
どんな思いでそれはあるだろう。

押しつぶす者。その者たち。その末席で追従笑いを浮かべてる者。生きるためだ仕方ないと自分に言い聞かせ、へらへら。蹂躙する側にさえ連なってれば、ひとまず自分は蹂躙されずに生き延びられる。つかの間の安心安全でも、安心は安心。安全は安全だ。でも、へらへらとやり過ごそうとした自分を、生涯おそらく忘れるまい。

この季節、線路のガード下の路上で体を横たえてる人がいる。それはいつもと同じ光景だが、その「光景」は街路樹でもないし、オブジェでもない。舗装された道路がどれほど冷えきってるものか、触れればわかる。自分が美味しい酒を呑み、魚をご馳走になり、人と愉快に語り合い帰ってくる夜。ダンボール一枚を敷いて、薄い毛布一、二枚、顔まで覆い隠して眠ろうとしている人。眠れるはずのない寒さ。全財産なのか、空き缶の詰まった袋が一つ、替えの服が二、三枚、そばに置いてある。屋根と壁とストーブのある部屋で、布団に眠れる自分が一方にいる。
具体的に声を掛ければいい。一緒に腹を満たして一緒に暖をとればいい。具体的にそれが出来ているか。出来ていない。

水上勉の小説『ブンナよ、木からおりてこい』に雀のこんなセリフがある。
「かえるさん、弱いってことはわるいことではないよね。かなしいことにちがいないけど、弱いことはわるいことではないよね。」
弱いことは、悪いことではない。でも、弱いことを忘れたり、弱いことに開き直ったりしていたんでは、まして押しつぶす側の末席に連なってへらへらしたりしていたんでは悪いこと以上に出て行ってしまう。

昨年観たこまつ座公演「紙屋町さくらホテル」のチラシに、原作者・井上さんの次の言葉があった。

「楽しいときほど、
その楽しさを無理やり奪われた人たちのことを条件反射みたいに
ふっと思う人間に僕はなりたいし、
そういうのが普通にできるようになったら
絶対に間違わない世の中ができると思う。」

先月の東京大雪の夜、マンション脇から茶トラの子猫が飛び出してきて、駐車場の車の下へともぐりこんでいった。しばらくしてから探しに戻ってみたけれど、もう見当たらなかった。条件反射みたいに、ということが肝腎なのだ。