その人々を、正面に

拝啓
人物は市井にありと云いますが、先々週のこと都合3日間の予定で被災地の障害当事者の取材のために、初めて岩手県宮古市へと足を運んだ時のことです。

宮古市内につい先頃生まれた被災地障害者の支援団体で統括スタッフとして働いているYさんは、関西のご出身。震災当時は神戸で働いていたそうです。人あたりの柔らかい、時に柔らかさが高じて頼りなさを覚えるような人柄で、控えめで優しくて不器用な、もじもじとした感じの、不惑を2,3歩前にした男性です。声を荒げたりは決してしなそうでいて、その逆鱗にひとたび触れたら法外な胴間声が飛び出してきそうな、それでいて飛び出した口の先から「あ、すみません、大きな声出して…」と赤面しながらいよいよ小さくなりそうな、そういう方でありました。

取材2日目の夕べ、Yさんと一緒に灯油の買出しに行った時のこと、何故ここのスタッフを勤めるようになったのかを、話してくれました。Yさんは震災当日、電車に乗ってヘルパー仕事の派遣先へ向かってる途中に、地震を知ったそうです。揺れたから、というのではなく、電車に同乗していた高校生たちが携帯電話の画面にワンセグを映し出し「東北がすごいことになってる」と話しているのを耳にし、どれと思い覗き込んでみると、とんでもない映像が映し出されていた。それ以来、自分には何が出来るんだ、と悩みつづけて「結局お金もない、大して力もない自分が出来ることは現地に行くことだ」と一決し、5月からボランティアとして岩手の障害当事者の支援に入ることになったそうです。

その夜、ささやかな呑み会の席上、一生懸命になって岩手・宮古の障害当事者の現状について思いをめぐらし考え込んでいるYさんの横顔を見ながら、お会いした当初Yさんに感じた、決断力や実行力に欠けた印象を覚えた自分自身の不明を恥じました。この人はそういうところで見るべき人じゃない、ということを思い知り、思わずこんな風に話しかけました。
「Yさん、僕は嬉しいです。わざわざ岩手まで、神戸から出てきてこんなに動いて下さってることが、すごく嬉しいです。こんなことを僕が言うべきことじゃないことはよくよく分かってるつもりです。僕は何が腹立つといって、人が云うべき言葉を勝手に代弁することほどイヤなものはないのです。だから、本来僕は”嬉しい”なんてことを云える筋合いじゃないし、かりそめにも”感謝してます”とか、”東北人を代表して感謝します”なんてことをYさんに云ってはいけなくて、それは誰あろう宮古の人が云うべき言葉です。でも、僕はやっぱり、本当に嬉しいです。”嬉しい”なんて言葉も余計だと分かっていながら…」
くどくどと弁解じみた私の云い訳をYさんはにこにこ顔に聴き終えると、小さな声で「もう、本当にこれは、自分がしたくてしてることですから」と控えめに答えました。Yさんならそういうだろうなあという言葉が、そのまま返って来ました。

  「君子の道は、闇然として而も日々に章かなり。小人の道は、的然として而も日々に亡ぶ。」
  (君子の守り行う道は、ちょっと見ただけではまっくらで何も分からないが、日が経つに
   つれて鮮やかになる。小人の行う道は、ちょっと見ただけでは赤々と輝くばかりに善い
   ようだが、日が経つにつれて消え失せてしまう。)
                                (『中庸』第六段・第一節)

本当にえらい人は、いつもこういう姿をしています。

翌日、仮設住宅の支援に入るスタッフの取材のため、宮古市内のグリーンピア跡地に建てられた400戸余りある大規模仮設団地へ行った時のことです。仮設住宅の通り道になっているじゃり道が、アスファルトで舗装されていることに気付き、ああこれなら車椅子でも動きやすい、福島とは違うなあと、南相馬市へ行った時のことを思い出していました。
最初からこうなのかしらん、とあたりを見渡すと、仮設住宅の入り口にぽつねんと立っているおじいちゃんが目に入りました。子どもたちがスクールバスで帰ってくる時刻でもあったため、子どもの見守りでもしてるのかしら、と思ったところ子どもに声を掛けてる様子もない。いつもそこに立ってるようではありながら、それでいてそこ行く人の誰彼に気にされてる景色はさらにない。おじいちゃんの顔にぼんやりした一瞬があることも何となく気にかかり、「このアスファルトはいつ頃出来たものなんですか?」、と聞くと案外はっきりした声で、「最近ですね。何度もお願いしてようやくね」と事のいきさつを話し始め、その話は段々と、おじいちゃんの過去の日々や、宮古沿岸、三陸地方の養殖が盛んだった時代の回顧へ流れていきました。

昭和5年に生れ、50年以上に渡って漁師や養殖業をして暮らしを立ててきたこと。養殖は昭和40年代、市から実習を受けるよう指示を受け、9名程で女川まで実習に行ったこと。その当時書いた報告書はいまも女川にあるだろうこと、しかし自宅にあったその種の資料はすべて家ごと流されてしまい、もう何にも残ってはいないこと。
実習で学んだことや、報告書を出したことを自慢のように、繰りかえし繰りかえし語るじいちゃんの姿は、「そんな昔の小さなことを」と無下にすることは到底出来ない尊さを見せていて、輝かしい往時の記憶をひと筋の頼みに生きていることに、不思議な有難さを感じさせてくれるのでした。じいちゃんの顔が、ちょうど一年前に死んだ私の母方の祖父に似ていたことと、同じ昭和5年生れという因縁とが手伝って、偶然の出逢いを勝手に楽しんでいました。

しかしじいちゃんは、私のじいちゃんとは違って殊勝な孫を持ったようで、最近働き始めた二十歳の孫からお小遣いをもらうようになったと、喜んでいました。孫の帰省の折、「じいちゃんも年取ったなあ」と云われ、孫にこんなことを云われるようでは情けないと、泣き笑いみたように顔をくしゃくしゃにして見せました。息子は養殖業をつづけようと思ってるが船も道具も家も流されて、おまけに原発事故の影響もあってはどうにもこうにも、どうして良いのか分からない、本当にどうして良いのか分からないよと云いました。
雪は休みなくちらほら舞いつづけ、それでいて積もる気配もない。暮色が濃やかになってきた頃、じいちゃんは話頭を進めました。
「俺もこうやって笑ってっけどさ、本当はいっぱい泣いてんだよ。男だって泣いてるよ、みんな。女だってそうだ。涙いっぱい腹にため込んでるのを、外で流さずにいるんだよ。こうやって笑ってるんだよ。ここの公衆トイレから、女の人が泣きながら、目赤く腫らして出てくる時もあるよ。家や世間の前じゃ泣けないから、そうやって隠れて泣いてるんだろ。復興だ希望だって、どうしたらいいのさ」、こう云ってまたくしゃくしゃの、泣き笑いみたような顔になりました。

復興と云い、希望と云う。善意から、と時に云う。その「善意」なるものにまつわる無邪気な悪意に、無自覚なままの人々が。

「いつの間にか」、「気付かぬうちに」というあり方で、人々の歩みが辿り着いたその先に、歩きぬいた人々がなおもひたぶる歩こうとするその刹那、ふと立ち止まり、来し方を振り仰いでみたその時に、図らずもああ、との声が洩れる。その「ああ」という大息を、「復興」と名付け、「希望」と呼びうるだけの時間の堆積が見えてくる。その時間の堆積を得意顔して奪い去り、聞かぬ先から「復興」だの「希望」だのと吹聴する手合いを、私はどうにも許せない。誰も代弁するな、と云うこと。その土地の人、そこの人、そこに生きる人、そこで暮らす人、その人々がすべてを担うべきなのだ。いや、ちがう。「すべてを担う」ではなく、その人々が、正面に立つべきなのだ、ということ。
「誰を正面に?」と問われれば迷わずこう答えよう。「その人々を、正面に」と。

じいちゃん独りの泣き笑い顔が、根を持たざるすべての言葉を無効にする。そんなじいちゃんの腹の中に満満と湛えられた涙の湖へとつながる道を知ってるのは、Yさんのような人だということ。Yさんの物腰であり、言葉遣いであり、振舞い方だということ。こういう人々をこそ、確かに記録しておきたいのです。

                                                    敬具

平成壬辰 睦月三十一日
宍戸 大裕