こころで見る、ことばが消える

拝啓
今日、初めてサン=テグジュペリの『星の王子さま』(岩波書店)を読みました。何かを読んだ後や観た後には、誰かに何かを話したくなるということが往々にしてありますが、この作品については、何かを云いたくない、云ってしまいたくないという気持ちが最初にやってきました。言葉には混沌としたものを限定する性質があって、その限定する性質が他者と何事かを伝え合おうとする時それを可能にする効用であることは事実ですが、言葉をどんな風に組み合わせてみても、その混沌を説明し切れないことがあるということも、また言葉の性質の限界として、云えることだと思います。言葉がこころに追いついてこない、ということだと思いますが、この作品の読後感は掛け値なしにそれであり、シンと沈黙してることより他に気の利いた言葉は、この際にあってはないのだと思います。 

そんな風に感じることが、このところ幾つかありました。石巻で昨日まで開かれていたふたつの絵画展がそれです。
ひとつ目の絵画展は先月の10日から石巻河北ビルで開かれていた「戦没画学生『祈りの絵』展」で、長野県の「無言館」に所蔵された作品から70点余りを展示したものでした。そこでは絵に限らず、ハガキやパレット、写真なども展示されていました。ある画学生の描いた作品の横にあった短い説明には、学徒出陣によって出征する朝、絵を描きつづけていた学生が、見送りの人たちへ挨拶するよう父から「早く早く」とせかされながらも絵を描き続け、その横で母が泣いていた、とありました。その学生はあと5分でも、10分でも多く時間があればもっといい絵が描けるのにと云いながら出征し、戦死されました。
また、早く国へ帰り絵を描くのだと思い、士官の道は選ばず一兵卒として戦地へ赴いた画学生が、初めての戦場で狙撃され戦死したという話もありました。その学生、京都絵画専門学校の小野春男さんが描いた「茄子」という絵は、優しくて品がありその人柄が目に浮かんでくるような、素晴らしいものでした。

戦争は、狙撃兵の銃眼の向こうに見えた男を、「茄子」という優しい絵を描くひとりの青年ではなく、ただの侵略者のひとり、ただの日本兵のひとりにしてしまうのだということを、感じました。この一事を以てしても、戦争の憎んでも憎みきれぬ悪を教えられます。

それからもうひとつの絵画展が、今月の13日から3日間、ナリサワギャラリーにて開かれていた「震災で消えた小さな命展」。そこでは、震災で亡くなった多くの動物たちの絵が展示されていました。
 (HP http://www.chiisanainochi.com/01_gaiyou.html

   

主催者の「うさ」さん(HP http://www.usa-peace.com/)はボランティアで被災地を回りながら、たくさんの動物たちが震災で命を落としたことを、そして家族である動物たちを亡くした多くの飼主がいることを知り、動物たちと飼主の心を絵によってつなごうと、今回の絵画展を思い立たれたそうです。祈りが、まごころがこめられた幾つもの絵のなかで、とても印象的な作品がありました。それは、2匹の猫が手をつなぎ、1匹の猫が少し前に立ち、もう1匹の猫を引っ張るようにして歩いている絵でした。2匹の猫を津波で亡くした方のための絵でした。かわいらしさがそのまま哀しくて、仲良しのふたりがいまも仲良く、旅立った世界で暮らしているような姿を描いていました。

南三陸町陸前高田気仙沼…。行ったことのない土地土地の名前が絵の下に記されているのを観ながら、逢ったこともない人の、逢ったこともない動物たちと生きてきた暮らしの風景が見えてきた時、今まで取材をさせてもらった人と動物たちの姿と重なり合い、胸が締め付けられるようでした。

星の王子さま』にある、かんじんなことは心で見るものという話を読みながら一枚の絵が伝えることの大きさを、繰り返し感じ直してみています。映画づくりでもそれは同じことで、言葉や見えるものによって何かを伝えようとするだけでなく、画自身に語ってもらえるような、その画を観た人のこころでふくらむような作品にしたいと思います。

                                               敬具

平成壬辰 卯月十六日
宍戸 大裕