時代は変わる

拝啓
先月27日、新宿紀伊國屋サザンシアターで「犬と猫と人間と2 動物たちの大震災」のプレミア試写会を行った。上映後には糸井重里さん、飯田プロデューサー、僕との3人で40分余りトークをさせてもらった。
2月の試写会に続いて今回が2度目の視聴となる糸井さんが、こんな話をしてくれた。

「1回目に見た時は考えることが多くて本当に疲れた。だけど今日、2回目を観ていてようやく分かった。これは、前作の「犬と猫と人間と」で飯田さんが稲葉さん(注:飯田さんに映画製作を依頼なさった女性)から頼まれてバトンを渡されたように、今度は宍戸さんが飯田さんに手を引かれてジャングルの中に入っていった映画なんだね。監督自身の、迷いながら撮っている、というところにほっとする。正しいとか間違っているという裁断をしていない。」
「いつからか人は“考える”ことから必ず答えが出せると思ってしまっているけれど、その時は答えが出せないこともある。答えが出ない中でも考え抜いていれば、5年後10年後、“ああそういうことだったのか”と気づくこともあるんじゃないか。」
「そしてこんなことがあった、あんなことがあったという風に“整理しない”という整理の仕方も必要だと思う。それは投げ出しじゃない。例えるなら、戦争のことをおじいちゃんが話してくれている感じ。どんな歴史の知識からよりも、おじいちゃんの話を通じて、その背負っているものの正体に触れる気がする。この映画は、おじいちゃんの話を聞くように、監督が見てきたものを一緒に見ていく映画なのだと思う」

原発の爆発事故という、日本の歴史上初めての事態に直面した人々がその時どう考え、行動したのか。それはいまも僕たちが直面している事態だ。だが、震災からまだ2年しか経っていないにもかかわらず、「風化」という言葉がちらほら目につくようになってきた。それは映画の世界にも、如実に表れている。

「震災を扱った映画は、人が入らない」―

ほとんど定説化してしまっている日本の映画の状況だ。「震災もの」というだけで敬遠されてしまう。「犬と猫と人間と2 動物たちの大震災」にとっても、それは例外ではない。例外でないどころか、映画の内容は大震災を生きぬく動物と人々の物語。タイトルもそのものずばり「大震災」と明記してしまった。敬遠される条件を揃えている。
この日のプレミア上映会も、400名定員のところにお客さんは177名(うちご招待が105名)。席には空席が目立った。映画を製作した者にとっては、お客さんは1人でもうれしい。「一誠ひとりを感ぜしむ」。だが一方で、たくさんのお客さんに観てもらえたらもっと嬉しいというのも正直な気持ちだ。

だがなかなかどうして、お客さんは集まらない。どうしてだろう?
テレビや新聞で散々見た、聞いた。震災のことはもう十分知ったから映画までは観たくない、忘れたい、前を向きたい。それが震災から2年を経た人々の感覚かもしれない。それは別に悪いことではない。今から800年の昔、『方丈記』にもそうした人間の感情が細やかに描写されている。人間とはそうしたものかもしれない。だが、そうは言いながらも小声で呟きたくなることもある。「忘れちゃいけないこともあるだろう」と。

最近観た映画「長嶺ヤス子 裸足のフラメンコ」(http://hadashinoflamenco.com/)で、長嶺さんが話していた言葉に感銘を受けた。それはこんな趣旨の話だった。
“震災前からたくさん困っている人たちはいたはずなのに、だれも目をくれなかった。震災が起きたからといって支援活動するっていうのは変な気がする。もともと人間はそんなに優しくなかったと思うの。”
うる覚えの理解なので、細かい言い回しやニュアンスは違っていたかもしれない。気になる方はぜひ直接劇場に足を運んでほしい。ここで僕が感銘を受けたのは、もともと人間はそんなに優しくない―、という一言だ。

対岸の火事が心配でたまらず、寝床で何度も寝返りを打つ人はそう多くはない。火事は此岸でも起きうるが、現実にはまだ起きてはいないのだ。まだ起きていない事態を心配するほど暇ではないし、面倒なことは考えたくない。できれば何も起きずに済んでほしい。そうした思考のめぐりのうちに震災を記憶の底に封印することは、人々の自然な反応かもしれない。何も起きずに済んでほしい、という願いは、いつしか何も起きずに済むだろうという確信に変わる。
僕自身を振り返ってみても、震災前、原発のことにはほとんど無関心だった。
できれば原発事故など起きてほしくない→いままで過酷事故は起きていない(それは嘘だったのが)→安全は保たれているだろう→事故は起きない。
そして、考えることをやめていた。

「犬と猫と人間と2 動物たちの大震災」、この映画は被災した動物たちとそれを支え生きてきた人々のことをまだ知らない人々にこそ届けたい、そして一緒に考えてもらいたい。ともに生きる命のことを。では、どうしたら届けられるのか?

「自然災害も多く原発も多い日本では、東日本大震災で起きたことはひと事ではなく、わが事。だからぜひ一緒に考えてください」

こうしたことを僕はよく話すし、実際そう思っている。だが一方で、空々しく聞こえてしまうことがあることも事実だ。「ねばならない」という義務感に訴えたり、「起きうること」への備えを強調するだけでは人は動いてくれない。「起きたこと」と「起きうること」には天地の差がある。じゃあどうやって、この事態を知らない人々に映画を届けたらいいのだろう?
 
ここで、糸井さんの話に立ち戻る。
前作の「犬と猫と人間と」から応援してくれている糸井さんは、「僕の年になるといままで当たり前だったことが当たり前じゃなくなるということをいっぱい見ている。カッコ良かったことがカッコワルイことになったりする。人はカッコイイ方に流れていく。時代は変わるということに期待して良いと思う」と話してくれた。
時代は変わる。その確信を持ちつづけて歩んでいくこと。
糸井さんに励まされた気がした。

人間に限らず、命あるものを大切にすることはカッコイイこと。
何万年も先の生き物に有害な物質を残すことはカッコワルイこと。
人はカッコイイ方に流れていく。時代は変わる。そんなほんのりとした確信をもらった夜だった。

震災映画は人が入らない。原発事故は日一日と遠くなる。いまこの瞬間も、世界に放射能をまき散らしているというのに。
だが、期待して良い。時代は変わる。
製作や上映活動を通して、震災以来たくさんの人と知り合うことができた。はるか前から動物を守る道を歩んできた人、震災に直面して活動を始めた人、みなそれぞれに想いを持ちながら出来ることに取り組んでいる。その人々の力を借りて、この映画を全国に届けること、それが僕の役割だ。
時代は変わる。この映画を、必ずあなたのもとにも届けたい。

                                                     敬具

平成癸巳 卯月三日
宍戸 大裕