家族

中国へ、と題した記事を書いてからもう4ヶ月も経ってしまいました。
この4ヶ月でふたりの人が「さいきんブログ書いてませんね」と声を掛けてくれました。僕はこのふたりの有難い読者を生涯大切に思います。

中国での思い出は書こうと思い中国に旅立ちましたが、あまりいい思い出の無い旅でした。その後は「動物たちの大震災 石巻篇」という作品を編集・上映したり、東京へ移住して撮影・編集をはじめたり、総選挙があったりと、いいこともいやなこともないまぜの幾歳月を過ごしました。

ことしは年明けから、いい家族を撮影することが何度もありました。歳の半ばごろからは、家族に恵まれない人の撮影もするようになりました。家族に恵まれない人のそばで、家族のように接する人と、家族のように受け止める人たちとも出会いました。

東京の片隅で、ひとりそんな映像を見直しながら編集をしていると、自分も無性に家族がほしくなってきて、自分をはぐくんでくれた親を思い、姉を思い、親の友を思い、親の兄弟たち、祖父母を思い、と。無数の手が、はぐくんでくれたことを思います。

10月18日から世田谷文学館ではじまっていた「水上勉ハローワーク 働くことと生きること」に今週行ってきました。その日、知人が「ブンナよ、木からおりてこい」(新潮文庫)を下さったので、読ませてもらいました。


  ぼくらのいのちは、大ぜいのいのちの一つだ……だから、だれでも尊いんだ。
  つらくて、かなしくても、生きて、大ぜいのいのちのかけはしになるんだ……


水上勉は、自身の作品の中で後世まで残るものは「飢餓海峡」とこの「ブンナよ、木からおりてこい」の2つだと考えていたそうです。「ブンナよ〜」の終わりに出てくるこの一節、この一節をこんな風に切抜きしてしまってはきっと、人の耳目にはとどまらないかもしれない、すり抜けていってしまうかもしれない、だから切り抜いてはいけないのだろうけど、僕は本のここの箇所に鉛筆で線を引きました。

ひとりのいのちは、ずーっとつづいてきた長い線をつなぐ一粒の点に過ぎないのだ、と亡父は言いました。その父の点の一粒の後に、僕という点があるのだ。といまは思い、その点はもしかしたら次の点を残すことなく消えてしまうのかもしれないけれど、「大ぜいのいのちのかけはし」を僕自身が担いうるとしたら、いったいだれにどんな風に?と考えてしまう。

家族を考える撮影が続いたことしを振り返ると、ひとりの人がそこに”ただあること”がただ素敵で、ただあることがそのままだれかのいのちのかけはしになっていると、かんじた瞬間があった。瞬間はあった。

尊さはただそこにあること、にある、と思った一年。
ひとは孤りではさびしいものだと、身に沁みた一年。
家族はいいなあと、初めて知ったように知った一年。そんな一年だった。


平成甲午師走二十日
宍戸 大裕