いのちのめぐる

夏の田んぼの畦道を朝な夕な歩いている。朝、ふと前の草むらにオニヤンマが低く止まっている。近づいてよく見ると生きながら仰向けにされたセミに乗りかかり、喰いにかかっていた。ミン、ミン、ミンとセミの必死が畦に鳴き渡る。手脚を振り回して抵抗するも構わずに、オニヤンマはセミの脚を1本、1本と喰っていく。か細く弱く、短くなるセミの鳴き声を聞き届けて、また歩みを進めた。
先では、アスファルトに横たわるハチの屍骸にぐるりと小さな砂が集められ円墳のようになっている。よく見ると幾匹ものアリが、そこへ砂を持ち寄ってくる。人から見れば砂だけど、アリからすれば岩のような大きさだろう。どうしてハチの周りに砂を積むのか、見当も付かない。以前、死んだミミズがアリに運ばれていくのを見つけた時も、ミミズは周到に積まれた砂に取り囲まれていた。朝に見たハチは、夕方には円墳だけを残しいなくなっていた。

水上勉がカエルのブンナの視点から生きものの食われ食ういとなみを書いた「ブンナよ、木からおりてこい」(新潮文庫)。

 ブンナは、やがて自分も、なにかに生まれ変わって生きるのだと思いました。
 そう思うと、かえるも、へびも、百舌も、雀も、みなおなじ仲間で、
 死んだらなにかに生まれかわってゆくのでしょう。
 へびは鳶のえさになったから鳶になりました。
 百舌もやっぱり鳶になったのでしょう。
 とすると、あの鼠さんは、ブンナになった。

 
この一節が、理屈ではなく実感をもって腑に落ちてくる齢になった。理屈はわかっていたのだけどと言いたい訳でない。理屈としてわかって実感としてわからないなんてことはない。実感がなければ理屈としてもわかっていないのだから。
お盆で親戚が家に集まった。朝方、5歳の甥と3歳の姪が寝ている私を起こしにくる。早く起きてもう朝だよ。早く起きてご飯だよ。揺すりさわぎ、ついには乗りかかって起こしにかかる。この景色をどこかで見た覚えがある。そう、30年も前に私が父母にしていたことだっけと、時空がゆがんで重なり合う。父の眠たそうな顔、母のしかめた顔。それでも、怒るといった素振りはひとつもなかったこと。こうして繰り返し繰り返し、人の大人は子どもに起こされ、子どもは大人になり誰かに起こされる日がくるのか。父母が怒らなかったことも、今ならすんなりとうなづける。

 
  一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり (「歎異抄」から)

 
親鸞の観ていた風景に実感がすこしずつ近づいていく。「一切の」というところ、「父母兄弟」というところにまだ距離がある。明け暮れの重なりにその距離の近くなることを期待する。言葉の方から寄ってくるのか、自分の方から進んでいくか。そんな不遜な恣意は捨ておいていい。どちらからということでなし、気づいたら実感があった。そんな風に明け暮れたい。

ことしも夏がおわる。