ある御縁から、東京の一隅で映画の製作をはじめてもうすぐ1年になる。撮影はそろそろ大詰めを迎え、編集もようやくかたちがみえる予感がするまでになってきた。こういう時期がとっても愉しい。
昼も夜も、ひとりで部屋にこもって映像を眺めている。いつもおなじシーンでウハハと笑い、いつもおなじシーンで言葉を失う。ここでこうなる、こう話す、と知ってはいてもおなじシーンでおなじ反応がある。そうでないことももちろんある。たくさんある。そうでないシーンはだから、だんだん無くしていく。そして、かたちがみえる予感が訪れる。
予感は予感であって(予感でしかなくて)作品ではないのだから、愉しくなっていても全然仕方がないのだけど、それでも予感は愉しいものだ。これは傑作になると、大胆不敵な想像が頭をよぎる。作品が出来てこそ傑「作」だから、いまは傑「予感」とはいえる。なんて読むのかもわからないけれど。
高見順の詩「喜び悲しみ」に、こうある。
かう その 寝たつきりで
をりますといふと
庭つゞきの向ひの家の犬の
喜び悲しみが
はつきりと分つてしまつて
それが
僕の喜び悲しみに成つてしまつて
つまり
僕自身の喜び悲しみは
無くなつてしまふのであります
編集画面を通して映像を眺めながら、そこに映る人たちの喜びを一緒に喜び、悲しみを一緒に悲しめる瞬間が、稀にやってくる。それはほんとに稀ではあるけれど、いつか観てくれる人たちときっとわかちあいたいと思う喜び、悲しみであるのだ。
平成乙未 卯月五日
宍戸 大裕