君自身どう対したか

中野重治の小説『五勺の酒』。読み返すたび、五臓に倫理が降りてくる。胴震いがおこる。

  「何よりもあれを止めてくれ。圧迫されたとか。拷問されたとか。虐殺されたとか。それは
   ほんとうだ。僕でさえ見聞きした。しかし君自身は生きているのだことを忘れないでくれ。
   生きている人よ、虐殺された人をかつぐな。生きていること生きのびられたことをよろこべよ。
   そうして、国民が国民的に殺され、拷問されたことを忘れぬでくれ。(中略) 
   死者を襲ったそのものに、君自身どう対したかをしらべずには決して死者を誇るな。」

圧迫するもの、拷問するもの、虐殺するものに加担はしない、できようもない。それはそうだ。だいたいの人間がそうだろう。一方で、と中野は言う。圧迫されたもの、拷問されたもの、虐殺されたものを担ぎ上げて誇るのも止めてくれ、と。

自分自身が圧迫するものに対して、どう自分として対したか。対峙したか。時に対決したか。そのことに目をつむり、口を拭って鞠躬如。逆にでてくれば声高に。圧迫され、拷問され、虐殺されたもののたたかいを、まるで自分のたたかいとして担ぎ上げる。そういうのを止めてくれ、と言うのだ。

人間を圧迫する側に立たない。と同時に、圧迫された人間を担ぐ側にも立たない。己がどう圧迫するものに対峙していくか、対決していくかを糺すことが大事なのであって、圧迫されたものを担いでみたところで何のたたかいにもならない。専制政治が圧し通るとき、誰々がああしたこうした、すべった転んだ。そんなことを空騒ぎに騒いでも専制を押し返す力にはならないと思う。

人それぞれ、自分の持ち場で精一杯たたかおう。自分自身を担ぎ上げていこう。

平成乙未 弥生三十日
宍戸 大裕