越前福井

「おぞい」という言葉を知った。「道草」の試写会のため先週末福井に来て二日のうちにある店で店主から二回耳にし、駅前の古本屋で見つけた福井生れの作家の研究書で一つ目にした。「ひどい」とか「よくない」というニュアンスをもつようだ。用例としてこんな風に使う。
「福井城址に近代建築の県庁を建てるなんて、おぞいおぞい。堀がある、石垣がある、その上に鉄筋コンクリートがどかんと乗っている。まったくおぞい。」

 

おぞい福井県庁を西に歩くとすぐのところに、足羽山という小高い山がある。そこに、医師・藤野厳九郎の石碑があると知り、向かった。魯迅が書いた「藤野先生」のモデルになった人がこの人だ。1904年清国から日本に留学していた23歳の魯迅が仙台医専に学んでいた頃の話である。日本語が十分理解できないだろう魯迅を、担任の藤野先生が心配し声を掛ける。


 「私の講義は筆記できますか」と彼は尋ねた。
 「少しできます」
 「持って来て見せなさい」
 私は、筆記したノートを差出した。彼は、受け取って、一、二日
 してから返してくれた。そして、今後毎週持ってきて見せるように、
 と言った。持ち帰って開いてみたとき、私はびっくりした。そして
 同時に、ある種の不安と感激とに襲われた。私のノートは、はじめ
 から終りまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が
 書き加えてあるばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してある
 のだ。かくて、それは彼の担任の学科、骨学、血管学、神経学が
 終るまで、ずっつつづけられた。        
 −魯迅「藤野先生」−

いまから4年前の2014年9月、中国上海にある魯迅記念館を訪ねた。そこに魯迅が書いた医専時代のノートの複製が展示されていて、たしかに藤野先生の添削したという文字がうっすら残っていた。

 
 
 

足羽山をしばらく登っていくと自然史博物館がある。受付へ行き、藤野先生の石碑のありかを尋ねるも「フジノセンセイ?」と応対してくれた職員はまったく思い当たらぬ様子だ。電話でどこかへ連絡したり、事務所の奥へせかせか入って行ったりとして、しばらくするとベテランと思しき職員が分厚い資料を持って出てきてくれた。「藤野先生、惜別の碑ですね。平和塔の手前のここ、38番、ここです」とわら半紙に記した簡素な足羽山の地図を示しながら、38と印字された位置を指さした。足羽山には石碑類が多く、藤野先生碑は都合38番目に位置づけられていた。「藤野厳九郎碑」説明書きにこうある。

  芦原町下番の代々の医者の子として生まれ、医学をおさめ仙台医専
  教授をし、晩年は郷里で開業した。仙台にいた時、はじめ医学を志し
  ていた小説家魯迅を2年ほど教育し、魯迅に非常な影響力をもったこと
  で知られている。
  昭和20年8月、71歳で没す。像は昭和39年4月建立された。

 
 
 

言葉のわからぬ国へ留学にきた学生が親切な教授に出会い、真摯な教えを受ける。その親切教授が日本人藤野厳九郎であることは日本人わたしにとって嬉しい。わたしは世に「知られている」かたちでその人を知り、その事柄を感銘とともに受け取った。だがそういう受けとり方は“おぞい”と作家・竹内好は書く。

 「藤野先生」に向けられた魯迅の愛情は、私たちにとっても素直に受け入れ
 ほどなみなみならぬものであるが、そのなみなみならぬ愛情を支えている
 もの、あるいは逆に、愛情が支えているもの、それを問題にせずに「藤野
 先生」に対する魯迅の愛情だけを取り出すのは、愛情そのものを正しく
 理解することにもならない。(略)
 そしてそれは、「藤野先生」の中から、卑劣な学生幹事を忘れて藤野先生
 だけを取り出したいという、その藤野先生に「日本人」あるいは「私」という
 着物を着せたがる、一種のいい子になりたがる気持と共通の地盤を持つの
 ではないかと想像される。魯迅の愛したものを愛するためには、彼の憎んだ
 ものを憎まねばならない。魯迅を仙台から、従って日本から立去らせたもの
 を憎むことなくして魯迅そのものを愛することは出来ない。
 「私は、私の憎むものから憎まれるものを愛する」という意味のことを
 魯迅は言っている。
 愛を結晶させるほど強い憎しみを私は欲しいのである。    
 −竹内好「藤野先生」−
 
こういう文章にわたしはこてんぱんにされ、わたしの底の浅さ、おぞさを思い知らされる。