牛の見分けがつかない

 

 8月5日、6日と浪江町にある希望の牧場へお手伝いに行ってきた。昨秋来、9ヶ月ぶりに訪ねた牧場には274頭の牛が息づいていた。牧場長の吉沢さん、お姉さんともに元気だった。ジッとしてても汗が伝ってくる夏は、だからエサやりの作業が始まるのがとても早い。朝6時には吉沢さんの乗る重機が動き始めている。

もやし糟を与えりんご糟を与え藁を与える。おふたりとも重機の扱いは手馴れたもので、バケットに重たいフレコンバックを引っ掛けては牛たちのエサ場へ巧みに均して与えていく。「お手伝い」と言っても特別役立つことはなく、エサが行き渡らず食いっぱぐれた牛がいないか見て回る位のことだ。頭数は相変わらず多いが、牧場を支える人たちの弛まぬ努力があって牛は逞しく太り、元気だ。もやし糟、りんご糟、藁に加えて野菜くずやパイナップルの皮が都会から毎日のように運ばれてくる。

それらに牛糞が混じり合う牧場の独特の匂いが、夏の陽射しに蒸されて全身を浸す。すると必ず、8年前の夏が瞬間的に目の前に広がる。

 

2011年3月、原発事故が起きた福島県浜通りにたくさんの動物が取り残された。悲惨な光景がいくつも現れた。牛舎に行くと飼主が避難先から通っているかどうか、通っているとしてどの時期まで通っていたか、牛の姿からだいたい想像できた。すっかり骨になっていた牛は、事故直後から誰も通うことなく命を断たれたのだろう。うじがたかり腐り始めてる牛は最近までは飼主が来ていたのだろう。鳴き声をあげ、水を求めてくる牛は数日前には飼主が来ていたのだろう。

2011年夏の1日、ただ1度だけボランティアで牛舎に通う知人の手伝いをしたことがある。電気が止まった牛舎では自動的に牛に水を与える機械が使えず、近くの水道を探しては2リットルのポリタンク一杯に水を汲み牛たちの元へ運んだ。2リットルなどあっという間に1頭が飲み干してしまう。ある牛舎では10数頭もが生きていた。1頭に水を上げている間すべての牛が怒り、悲鳴を上げるように鳴きつづけた。「早くしろ、早くしろ」上げても上げても水は足りなかった。時間はまったく足りなかった。その日も今日のようにあつい、あつい一日だった。翌日も晴れ渡ったが、その日以来僕はそこに行くことはなかった。知人はひとりでそこに通いつづけた。

 その夏から、僕は肉という肉が苦手になった。出されれば、なるべくいただく。でも自ら好んで食べようとはしなくなった。肉を口にすると美味しいという感覚だけではすまない、説明しえない感情があわせてたちのぼってくる。美味しくないわけではない。ただ美味しいだけではすまなくなるので、結局欲しくならないのだ。魚は食べている。いずれ魚も何かをきっかけに食べなくなるかもしれない。それならそれでいい。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べることを理想とした人もいる。

 

さて久しぶりの牧場で、やはり思い知ったことがひとつあった。牛の見分けがつかないのだ。そりゃあ9ヶ月ぶりだから、というだけでもない。福ちゃんやいちごなど、名をつけられた牛は一目でわかる。そりゃあそうだ、福ちゃんは部屋が決まっているしいちごは牧場でただ1頭のホルスタインだ。初めての人でも分かるようになっている。これでは分かるとは言えない。姿を見分け、声を聞き分け、彼らを感じ取る力がつかない。いつまでたっても1頭ずつの牛に興味自体が湧いてこない。牛を牛として眺めるのみで1頭ずつが見えてこない。毛づくろいのブラシを手に持って近づいていくと走り去る牛、尻尾を振って叩いてくる牛、静かにブラシさせてくれる牛など様々だ。みなそれぞれに違う。個性がある。でもそれが誰なのかが分からない。分からないままでもいいかと思っている節もある。なんせ274頭である。

 

作家の水上勉が『ものの聲ひとの聲』(小学館)で次のように書く。

 ものにはものの聲がある。その聲を聞くことのできる人は幸せである。聞くひまのない人は気の毒である。だが、どっちにしても、人間は、そういう耳を持っている。心があるからである。
 人は黙っていてもものをいっている。そのいっていることが分かる人は幸せである。分からない人は気の毒である。だが、どっちにしても人間は、そういう心を眠らせて生きるか、醒めさせて生きるか、どっちかだが、誰もがものの聲をきく耳を持っているはずである。

 

3年前の相模原事件で、被告は「意思疎通ができない人」云々ということを言った。気の毒な人である。しかし牛たちを前にした時の僕自身の聞く耳のなさは気の毒といえるものではないか。姿を見分ける力のなさはどうか。気の毒といえないか。人と牛は違うと僕は思わない。おなじ生きものなのだから違うといえる根拠がないと僕は思う。

「牛」としてしか眺めることのできない地点からどうして一歩を進めていけるだろう。1頭ずつの牛がいつになったら自分の中に立ち上がってくるだろう。

 

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牛たち

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ウォーターカップ。8年前、あちこちの牛舎でこの水桶が空っぼでした。

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人の手が牛のいのちをつないでいます