平気になれない

「道草」の編集も佳境に入っていた昨年5月、最終盤で袋小路に迷い込み往生していた。その時、ふと思い立って出かけたのが神奈川県七沢温泉にある「福元館」という旅館だった。ここは小林多喜二が逗留していた旅館で、往時に多喜二が身を隠していた建物も残されていた。その部屋の棚には、「我々の芸術は飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ」という多喜二の書が飾られている。日付は1931年11月10日。年譜によれば、この年10月に日本共産党に入党し、作家同盟の党グループに加わっている。多喜二28歳になる年である。

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多喜二が福元館に逗留していたことを知ったのは、岩波新書から出版されていた『小林多喜二-21世紀にどう読むか』で紹介されているのを読んだことがきっかけだ。作家のノーマ・フィールドさんはそれまでも『天皇の逝く国で』(みすず書房)など何冊もの本を出されていて、学生時代の現代文学の授業でだったか、僕も参考書として用いられた『天皇の逝く国で』に出会い、読んでいた。
先日、そのノーマさんと福島在住の知人を介してお会いする機会を得た。ノーマさんは福島原発事故のあとの福島を取材されているという。ノーマさんを紹介して下さった方と3人で、宮城のなじみのカフェで話し込んだ。話題は多岐にわたり時は流れるようにすぎた。ノーマさんの文体はいつもあたたかく柔らかい。語りの奥行きが深く、その語りを読み進めていくと読み手の方から自然に事柄の本質にたどり着くようになっている。

 

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ノーマさんが多喜二について語る中で、こう記す。「全体を知ろうとすることと、全体を愛することが重なったとき、個別的な、たやすく切り捨てられる敵は視野から退いていく。」(『小林多喜二』)
多喜二を語った言葉でもあるけれど、ノーマさんの文章もまた、全体を知ろうとし全体を愛する人の文章だと、僕は感じている。

本書の第三部の5「東京の冬空の下の死」に故・小笠原克さん(元小樽文学館館長)の話が引用されている。多喜二の姉・佐藤チマさんが三十余年を隔てて初めて遺体の写真を見た際の様子を語る。
 

  褌ひとつで仰臥する遺体の写真パネルの前で、姉チマは呆けたように口を
  開き、おろおろと無言で哭くばかりであった。(中略)涙一滴ながさず
  -妙な言いかたながら、私自身が泣くなんてことは想像すら出来なかった
  のだ。……文字通り、涙も出ない痛烈な恥の念で姉チマの言葉を反芻せね
  ばならぬ。<いつになったら平気で読めるかなぁ、と思いますがね。>
  -私たちは、いつから平気で読めるようになったのか。<つらくて読めない>
  こともなく-そうこうするうちに事実にかんする知識も増し、評価の種々
  相も心得た、知ることの頽廃と紙一重の客観的研究。人間的感受力の鈍磨・
  剥離・喪失。

このくだりを読みなおす度、身のうちが焼けてくる。この熱はどこからくるか。平気になりがちなこと。平気になれないこと。平気になってはならぬこと。

先週、日本哺乳類学会が都内で開かれ参加した折に、思い当たることがあった。哺乳類の研究者による様々な発表があり、熊や鹿、イノシシなど日本の野生動物の発表が多々あった。分析とか統計とかふだん聞きなれない言葉は、透明で無機質な印象を受ける時間も長かったが、生きものへの敬意や愛情を持ち得ている人、失ってない人の発表と、それが感じられない人の発表とではこんなにも伝わってくるものが違うかと、素人ながらに(素人ゆえに)知ることになった。言葉の選び方ひとつに敬意は潜み込められるのだ。言葉は怖い。

熊に関する本を読んでいる。本州に住むツキノワグマが日本にやってきのたは、海水面が低下して大陸と日本が地続きになった50万~30万年前という。たいして、ヒトがやってきたのは4万~3万年前だそうだ。(『ツキノワグマ すぐそこにいる野生動物』) わたしたちよりはるか以前からこの地に暮らしている熊が、里へおり、住宅街にあらわれると大騒動が起こる。「人間のすみかに熊が現れた」と捉えられがちだが、熊の身に立てば「元はといえば熊のすみかにヒトが現れた」という言い分がもっともだろう。地上の生きものの中でももっとも暴力的な存在であるヒトは、熊をおそれるのあまり、あまりの仕打ちをしてきた。

 

 2004年 熊によるヒトの怪我 100人以上(2名死亡)熊 2,000頭以上捕殺
 2006年 熊によるヒトの怪我 145人(3名死亡)  熊 4,000頭以上捕殺
                     (『ツキノワグマ生態学』)

 

いくらなんでも、あまりでないか。ヒトに怪我をさせた熊とは関係のない熊が、「熊である」というひとつの理由から殺される。平気になっていいのか。平気でいられるか。
40度を超す夏。溶け出す永久凍土。アマゾンの森林火災。地球上の生きものたちが追い詰められ、生きる場を喪っている。奪われている。終末の様相を呈すニュースばかり接していると、あしたこの空に風は吹いてくるのか、雲はわくのか。虫は鳴いてるか、空に鳥は羽ばたくかとおののき、朝不安とともに部屋のカーテンをあけている。自明のことが自明でなくなる日の訪れを、どう迎えようというのか。破局へ向かう世界の中でいかに正気でいられるか。破局を止めるべく行動すること。そこにしか、正気を保つすべはないように思えるが、どうか。

来月6日から、多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」(作・井上ひさし)がこまつ座/ホリプロによって再演される。井上さんが作中、多喜二にこう語らせる。

 

 絶望するにはいい人が多すぎる。
 希望を持つには、悪いやつが多すぎる。
 何か綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないもの
 だろうか。…いや、いないことはない。

 

生きものたちへの鎮魂が底に脈打つ作品を、祈りを込めてつくりあげたい。

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