映画「アリ地獄天国」をみてほしい

 あんまり好きなためにその好きなことが、あんまりうまくつたえられないということがある

 「アリ地獄天国」(2019/98/土屋トカチ監督)という映画がある。この映画をみんなにみてほしいのだけれど、あんまり好きなために、それがうまくつたえられそうにない。

 もう10数年も前になる学生時代、僕は監督の土屋さん月に1度「風の集い」というあつまりで映画製作を教えてもらっていたことがある映画監督やカメラマンを中心に、映像づくりに関心のあるひとが酒とつまみと映像を持ち寄って試写し、批評し高めあうことを目的とした夜のひととき。僕はそこに2年間通わせてもらっていた。そこではつねに忌憚のない意見がもらえた。初めて映像をまとめて持って行ったときには、2時間の作品を最後まで辛抱強くみてくれた参加者からしみじみ、「何も残らなかったなあ」と言われたこともある。そう言われながらも僕自身思いあたることばかりだったので、悔しいけれど認めるほかなかった。じゃあどうすればいいか、そのことも一緒に考えてくれるひとたちがそこにはいた。

 ある、国際支援をしているという大学生3人連れで自作の映像を持ってきたことがある。インドだったかに学校をつくるプロジェクトをしているとかで、その様子を現地で撮影してきていたのだった。映像から、学生の屈託のないナマステ~、ナマステ~」という挨拶の声がしきりに聞こえてくる。彼らがつくったという学校が映り、周りにいる子どもたちも映されていた。映像には、川で水浴びをしている現地のひとの様子も映ったのだが、それは近距離から映したものではなくズームで撮られていた。はからずも現地のひととの本当の距離感が映りこんだようで印象にのこる。みじかい動画ではあったけれど、観終えて何ともいえない居心地の悪さが胸につかえていた。明るくなった部屋に沈黙がながれた。

 口火を切ったのがだれだったかほとんど覚えていないが、土屋さんがそこで話した最初の感想とその時の様子をはっきりと記憶する。土屋さんは泣いていた。そして静かに涙を拭ってから「…なんか、すごいイヤだった」とみじかく口にした。

 その映像の不快感を、僕もいまなら説明できる。臆面のなさ、恥じらいのなさ。経済的に豊かな国の人間が、経済的には貧しい国の、わけても貧しいひとびとのところへやってきて施しをする。それにとどまらず、施した自分自身をビデオで映し、施された相手の姿をも映しだす。お礼だって言われるし、感謝だってされるだろう。学校のおかげで学びの場をもてた人だっていたかもしれない。でもそれを、施した自分自身が映していいものか。

 躊躇も照れもなく、一貫して快活だった。相手がお礼するさまを映し、ナマステ~とはしゃぐその映像を観せられて、どうしたらこの勘定の合わない申し訳なさ、済まなさを現地の人に伝えられるだろうかと頭をよぎる。右の手のなすことを左の手に知らすなどころでない、露骨な立ち居振る舞い。

 ずいぶん前になる。参議院選挙東京選挙区の掲示板に候補者のポスターが貼りだされていた。ある一枚に、おおきな笑顔の写真と、その横に記された文字、「日本人でよかった」。反射的にいらだちがこみあげた。何がどう「よかった」のか。日本人でよかった、じゃあ何人だったらよくなかったのか。ある種のひとたちにむけた符牒のようなその屈託のない言葉に、胸がさわぐ。ある条件、ある環境、ある境涯で苦しい思いをしているひとが現にいる。それらの条件、環境、境涯を向こうに眺めて、ああ自分じゃなくてよかった、と胸をなでおろしているような、無神経がとび出してきたようなつぶやき。学生の無邪気さを目の当たりにした頃と、露骨な文字がポスターに踊っていた頃とが、振りかえればかさなりあっている。

 幸いというべきか、風の集いにはその学生の無邪気を不快と思うひとが集っていた。そして学生に不快の理由をはっきりつげる大人が集っていた。こんなことを言われるはずがないとでも言うように学生は悄然とし、あるいは憮然としてみえた。その映像をそれからどうしたかは知らない。

 あの夜、泣きながら学生をたしなめていた土屋さんの姿がわすれられない2008年に公開された監督作「フツ―の仕事がしたい」(2008/80)に多大なる影響をうけた僕は、とあるたたかう労働組合の専従職に応募したこともあった(結果は不採用だったけど)。

 映画「アリ地獄天国」は、引越し会社会社ぐるみの非道なあつかいをうける若い労働者の、そのたたかいを描いた映画だ。くわえて土屋さん友人の弔い合戦でもある友人のこと土屋さんの短編映像集「経年劣化」(2013/30)おさめられた「これじゃない」(2012)という3分の作品で知った。

 友人「やまちゃん」は土屋さん20年来の親友だ。仕事のことに悩みうつ病をわずらっていたという。その涯てに、「やまちゃん」は、みずからいのちを終えた。「これじゃない」ができてから7年がたち、映画「アリ地獄天国」はできた。昨東京「レイバーフェスタ映画祭」で初めてみた後半、土屋さんは主人公の青年に自身の経験を話しはじめる。亡くしてしまった大切な友人「やまちゃん」のこと。ここでも土屋さんは泣いてい土屋さんはよく泣く。そしてひどい目にあってるひとをそのままにせず、いっしょになってたたかう。はげしいやさしさとはげしい怒りをふたつながらもつひと。怒るひとは必ずしもやさしいひとでない。しかし、やさしいひとはきっと怒ることのできるひとだと僕はおもう。やさしいから怒るのだ。黙ってられないのだ。

 映画が終わりエンドロールが流れた。「企画」に土屋さんと「やまちゃん」の名が並んでいた。「やまちゃん」とともに生き抜いてきた土屋さんの、この7年の歳月をおもう

 映画は「やまちゃん」の弔い合戦でもあり、苦しめられてきた、世界中の「やまちゃん」の弔い合戦でもある。スクリーンから呼びかけてくる無数の、亡き数にいる名。

 むかし、福岡にあった副島人形店の前に「弱い者いじめする者の喧嘩買います」というビラが大書して貼られていたという。関東大震災の折、官憲に虐殺された大杉栄伊藤野枝の四女ルイさん博多人形づくりを学び、はたらきながら子どもを育てたという。土屋さんそのひとから、そのつくる映画から、副島人形店の前に貼られていたというビラの文句がいつも浮かんでくる。「弱い者いじめをする者の喧嘩買います」。

 世間にはつよい者の尻馬に乗って威勢をはったり、ひとを脅したりいじめたり暴力をふるったりするものが掃いて捨てるほどいる。掃いて捨てるほどいるならば掃いて捨てていこう、という意気地と実行とが、泣かせられているひとの背の荷をかるくし楽にする。あきらめよう、見なかったことにしよう、いじめられるものにも悪いところがあったんだろう、そうひとり合点して黙って通りすぎる者が掃いて捨てるほどいては、泣かせられるひとが増えるいっぽうだ。

 映画に、組合委員長の女性が出てくる。引越し業者の幹部の男が、やくざまがいの恫喝をしかけてくる際も、へいきに対峙している。声はすずしく理路整然とし、いっぽも退がらない。男はますます興奮しもはや話にもならない。声だけのやりとりで表情みえないが、女性顔色ひとつもかえず、それどころか眉ひとつ動かしてないとみえる。男は居丈高になり尊大に出ることかえってみずから頭を下げてちぢんでいることが、衆目にあきらかとなる。

 世間という世間がみないっせいに、弱い者いじめする者の喧嘩買いますとはじめたらいじめなんてなくんじゃないか。ドラマでもアニメでも、よわい者いじめをする者はたいてい最後にブッ飛ばされて終わるのだが、どうしたわけか現実世界ではブッ飛ばされるのはきまってよわい。威張ってる連中をぎゃふんといわせたい。そのたたかいの作法がこの映画にあるよわい者いじめをする者を高枕に眠らせない。揺り起こして、ひとをいじめるのやめろという

 1226日(土)仙台メディアテークで本作が上映される。上映後には、土屋さんのトークも予定している。ご参集を待ちうけます。

 

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昨年夏「レイバーフェスタ映画祭」の土屋監督

 

 


1..映画「フツーの仕事がしたい」HP 

2.映画「アリ地獄天国」 HP