五輪の採火

なにが度しがたいか。
それを説明せねばならぬことにいや増す、度しがたいという感情。

津久井やまゆり園で五輪の採火をするという。そこは、鎮魂の場だ。魂が鎮まる場であり、鎮まりは静まりに通じる。賑やかなお祭りやお祝いごとにふさわしい場所かどうか。場違いだと誰ひとり思わなかったのか。そんなことはないだろう。なおかつ、こうして「方針」が固まって出されてくる。奇貨居くべしの五輪便乗主義がこの方針決定に際してあったかなかったか。

五輪の採火の歴史が、本日の毎日新聞朝刊「余録」に紹介されている。
「太陽の光からの採火も、聖火リレーも、みな1936年のベルリン五輪から始まった。ナチス古代ギリシャの栄光と結びつけたいヒトラー好みの演出だった」。事件を起こした犯人はきっと歓喜するだろう。またも自分はヒトラーにつながった、“偉大”へ近づいたと。

社会福祉法人かながわ共同会と神奈川県、市が年明けから協議を重ね」た結果の、これである。浅慮な人間の粗略な思いつきなどでなく、大の大人が集い協議を重ねた上でのこれである。会議参加者の思考と、犯人の思考とが「短絡的」という点で実によく似通っている。会議室の一角でスマホに検索ワードを打ち込む。「五輪 共生」と打ち込んだらつづけて「津久井やまゆり園」と出てきた。いいじゃん五輪、この際ノっちゃおうよ!入力予測を真に受けて進んでいくような、薄っぺらさと危うさと。ペットボトルのお茶でも飲んで、信じてもいない空言の作文づくりに花咲かせたか。「きょうせいしゃかい!」。気楽すぎるというのだ。

前総理のウソで始まった“復興五輪”が、“コロナに打ち勝ったあかし五輪”と衣替えし、こんどは“共生五輪”と変化する。こうなると、五輪はイワシの頭か魔法のごみ箱である。自分たちに都合の悪いあらゆる身から出たサビも、放り込んで蓋をして信じていれば輝く宝石になって帰ってくる。他人を眩ませようとしてついたウソに自分が眩まされているのが、いまの日本の常在風景である。

畢竟、死者を利用してるのだ。被害者を黙らせておいて、そのくせいささかも気づいてない。「郷原は徳の賊」とはよくいったものだ。“善人風”の装いに隠しようもなく浮かんだ浅はかさ、それでいて鈍感で傲慢なふるまいよ。非を鳴らされても、きょとんとして意外な顔をするだろう。大人でありながら、それが度しがたいというのだ。

「共生社会の実現に向けた強い決意を国内外に示」したいなら自由にやればよい。だが、それを事件のあった場所で行うことがよいかよくないかくらいの分別はつけるべきだろう。ひとが殺された場所だ。声をあげることもできず。いまもあげられず。解かれずにある息づかい。焼けるような眼。
死者を利用するな。これ以上、語らざるものを利用するな。

 

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