薩摩訛りは心地いい

川内原発周辺地域にどれ位の犬と猫がいるのかを知りたくて、立地市の薩摩川内市、隣接市のいちき串木野市阿久根市に電話で聞いてみた。結果については近く発行するメルマガに記します。
その結果もさることながら、印象的だったのが3市の担当者に共通していた薩摩訛り。もしかしたら、地域によって微妙に違いがあるのかもしれないけれど、それを聞き分けられる耳は持っていないので「薩摩訛り」と乱暴にひとくくりにしてしまいます。それは、とてもいいものでした。

西郷南洲に猛烈にあこがれて、これまで三度鹿児島へ行ったことがあります。桜島を歩いたり、南洲神社へお参りしたり、錦江湾に沈む夕陽を眺めたり。知覧の特攻隊基地も、開聞岳にも行きました。大好きな鹿児島です。

明治十年。「今般陸軍大将西郷隆盛等政府え尋問之次第有之出発いたし候」と、南洲が三万余人の兵を率いて鹿児島を進発したのが2月17日。7ヵ月後の9月24日午前4時。官軍の総攻撃がはじまり、城山にこもっていた三百余の兵とともに西郷は斃れました。城山を、わずかな兵とともに駆け降りていった維新の巨星、南洲。

そして、あのフロックコートにシルクハット、馬上のアコーディオン弾き村田新八岩倉使節団のひとりとして文明開化を全身で浴びてきたであろうその男が、西郷下野を聴くと官職を辞し、鹿児島へ帰った。その真情。

西郷南洲遺訓』には、南洲が「文明」について語っている箇所があります。

 文明とは道のあまねく行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、
 外観の浮華を言うにはあらず。

薩摩の訛りは、いまにも残る。その雄雄しい大地とともに、故人の真情も言葉も、いまの世の人に残っていてほしい。

平成甲午文月二十三日
宍戸 大裕