安曇野、上田、沖縄のこと

先週、長野県安曇野市で「風は生きよという」の上映会を開いていただきました。
平日の昼間にもかかわらず200席の会場は満員。実行委員会のみなさんが人と人とをつなぐことに掛けた心が伝わってきました。あたたかな場に居合わせられたことに感謝です。またひとつ、忘れがたい上映会になりました。


【会場内の熊井啓監督展示室】

長野へ行ったらきっと行ってみたい場所がありました。上田にある戦没画学生の残した絵が展示されている「無言館」です。上映会の翌日、訪ねました。

無言館は特別おおきな場所ではなく、むしろちいさな美術館といえるかもしれません。その中に、戦争で亡くなった画学生の絵が展示されています。写真の左は、無言館の絵が宮城県石巻市に何年か前に出張展示に来られたときに買った絵葉書。写真の右は今回買った絵葉書です。右の絵は、無言館に入るとすぐ左側、入口向って正面に展示されていた作品です。息を呑みました。
タイトルは「飛行兵立像」。大貝彌太郎さん(福岡生れ・享年38歳)の作品です。歳月の風によってところどころ油絵の具がはがれて、飛行兵の顔が崩れかけています。崩れかけた顔の中に残った瞳。大貝さんと飛行兵と、目の前で相対しているような感情を覚えました。
大貝さんは1946年に亡くなられたと説明書きにあったと記憶しています。

別の学生に祖母を描いた絵もありました。「出征したらもう描けなくなるから」と言いながら懸命に絵筆を走らせる孫を前に、祖母は目に涙を浮かべていた。と説明されていました。正面を見据えた祖母の絵のその瞳は、うっすら赤らんでいました。学生たちを見送った人たちの思いが、その表情から感じられます。

73年前のきょう10月21日、東京は雨でした。1943年、国立競技場で出陣学徒壮行会が行われた日です。
信州の山山に囲まれて育った21歳の若者、上原良司さんも慶応大学に在学していましたが学徒兵としてこの年12月1日に入営します。南安曇郡穂高町の方です。
安曇野。いい響きです。漢字もまた美しい。

ぼくが上原さんを知ったのは、2001年に長野放送局が製作した番組「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます〜特攻に散ったある学徒兵〜」を観た時です。
上原さんの遺書は『きけ わだつみのこえ−日本戦没学生の手記−』(岩波文庫)の巻頭に載せられている著名なものです。番組は、この遺書とともに残された「所感」と、上原さんの妹・清子さんの証言を中心に構成されています。
番組の記憶を、おぼつかない記憶でたどってみます。
清子さんによると、良司さんが所属部隊から故郷に帰り、家族との短い時を過ごし部隊へ戻る日。子ども時代に一緒に遊んだ懐かしい川を境に別れながら、橋を渡る良司さんが振りかえり、「さよならー、さよならー、さよならー」と3回、母や妹に手を振ったといいます。家に帰ってきた母は「良司はもう帰ってこないよ」と清子さんに呟いたと、証言されていました。当時、家族であってもどこへ出征しどんな作戦に就くかは秘匿しなければいけなかったのですが、直感的に「母はわかってたんですね」と。

所感は、上原さんが鹿児島県の知覧基地から第56振武隊の特攻隊員として出撃される、1945年5月11日の前夜に書かれました。上原さんは、沖縄嘉手納湾の米機動部隊に突入し、戦死されています。アメリカ軍側資料によると、この日は75機の特攻機が飛び立ち、空母バンカーヒルに2機命中、駆逐艦エヴァンスに4機命中、同ヒュー・W・ハッドリーに2機命中などの被害があった(『戦場体験者 沈黙の記録』保坂正康・筑摩書房)とあります。
上原さんが嘉手納湾へ飛び立った日、沖縄は戦場でした。4月1日に沖縄本島へ米軍が上陸、南下をつづけます。

ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』(仲宗根政善角川書店)によると、5月11日には沖縄師範学校女子部の生徒島袋ノブさん(18歳)が南風原陸軍病院で亡くなり、沖縄県立第一高等女学校の生徒座間味利子さん(16歳)、照屋明子さん(17歳)が南風原村一日橋で亡くなっています。どんな人たちだったのか、どんな状況下で亡くなったのか、ぼく自身まだ調べつくせず、分らずにいます。

同日、同時代人。

東京の内田百輭の日記(『東京焼盡』中公文庫)から。

 午前八時三十分警戒警報同五十五分解除、B29一機なり。
 更に午前十時二十五分警戒警報同五十分解除。
 B29一機と外に房州沖に大型機が一機ゐるとの事であつたが結局こちらは何事もなし。
 午過出社す。夕お茶の水まで古日同社にて帰る。夕方は寒し。

鎌倉の高見順の日記(『敗戰日記』文藝春秋新社)から。

 (新聞記事に対して)なんともいえない口惜しさ、腹立たしさ、いら立たしさを覺えさせられた。
 敵に明らかに押されているのだ。敗けているのだ。
 なぜそれが率直に書けないのだ。なぜ、率直に書いて、國民に訴えることができないのだ。


戦争は5月11日から、さらに3ヶ月あまりつづいた。
あれから71年。きょう、10月21日の新聞記事(河北新報)から。


戦争は昔話ではなく、今日ただいまのことと思い知らされる。上原さん、島袋さん、座間味さん、照屋さん。5月11日に亡くなった若者たちが生きていたら、いま80台から90台のおじいさん、おばあさんになっている。