平気になれない

「道草」の編集も佳境に入っていた昨年5月、最終盤で袋小路に迷い込み往生していた。その時、ふと思い立って出かけたのが神奈川県七沢温泉にある「福元館」という旅館だった。ここは小林多喜二が逗留していた旅館で、往時に多喜二が身を隠していた建物も残されていた。その部屋の棚には、「我々の芸術は飯を食えない人にとっての料理の本であってはならぬ」という多喜二の書が飾られている。日付は1931年11月10日。年譜によれば、この年10月に日本共産党に入党し、作家同盟の党グループに加わっている。多喜二28歳になる年である。

f:id:furisakemireba:20180511175836j:plain

 

多喜二が福元館に逗留していたことを知ったのは、岩波新書から出版されていた『小林多喜二-21世紀にどう読むか』で紹介されているのを読んだことがきっかけだ。作家のノーマ・フィールドさんはそれまでも『天皇の逝く国で』(みすず書房)など何冊もの本を出されていて、学生時代の現代文学の授業でだったか、僕も参考書として用いられた『天皇の逝く国で』に出会い、読んでいた。
先日、そのノーマさんと福島在住の知人を介してお会いする機会を得た。ノーマさんは福島原発事故のあとの福島を取材されているという。ノーマさんを紹介して下さった方と3人で、宮城のなじみのカフェで話し込んだ。話題は多岐にわたり時は流れるようにすぎた。ノーマさんの文体はいつもあたたかく柔らかい。語りの奥行きが深く、その語りを読み進めていくと読み手の方から自然に事柄の本質にたどり着くようになっている。

 

f:id:furisakemireba:20190923165425j:plain


ノーマさんが多喜二について語る中で、こう記す。「全体を知ろうとすることと、全体を愛することが重なったとき、個別的な、たやすく切り捨てられる敵は視野から退いていく。」(『小林多喜二』)
多喜二を語った言葉でもあるけれど、ノーマさんの文章もまた、全体を知ろうとし全体を愛する人の文章だと、僕は感じている。

本書の第三部の5「東京の冬空の下の死」に故・小笠原克さん(元小樽文学館館長)の話が引用されている。多喜二の姉・佐藤チマさんが三十余年を隔てて初めて遺体の写真を見た際の様子を語る。
 

  褌ひとつで仰臥する遺体の写真パネルの前で、姉チマは呆けたように口を
  開き、おろおろと無言で哭くばかりであった。(中略)涙一滴ながさず
  -妙な言いかたながら、私自身が泣くなんてことは想像すら出来なかった
  のだ。……文字通り、涙も出ない痛烈な恥の念で姉チマの言葉を反芻せね
  ばならぬ。<いつになったら平気で読めるかなぁ、と思いますがね。>
  -私たちは、いつから平気で読めるようになったのか。<つらくて読めない>
  こともなく-そうこうするうちに事実にかんする知識も増し、評価の種々
  相も心得た、知ることの頽廃と紙一重の客観的研究。人間的感受力の鈍磨・
  剥離・喪失。

このくだりを読みなおす度、身のうちが焼けてくる。この熱はどこからくるか。平気になりがちなこと。平気になれないこと。平気になってはならぬこと。

先週、日本哺乳類学会が都内で開かれ参加した折に、思い当たることがあった。哺乳類の研究者による様々な発表があり、熊や鹿、イノシシなど日本の野生動物の発表が多々あった。分析とか統計とかふだん聞きなれない言葉は、透明で無機質な印象を受ける時間も長かったが、生きものへの敬意や愛情を持ち得ている人、失ってない人の発表と、それが感じられない人の発表とではこんなにも伝わってくるものが違うかと、素人ながらに(素人ゆえに)知ることになった。言葉の選び方ひとつに敬意は潜み込められるのだ。言葉は怖い。

熊に関する本を読んでいる。本州に住むツキノワグマが日本にやってきのたは、海水面が低下して大陸と日本が地続きになった50万~30万年前という。たいして、ヒトがやってきたのは4万~3万年前だそうだ。(『ツキノワグマ すぐそこにいる野生動物』) わたしたちよりはるか以前からこの地に暮らしている熊が、里へおり、住宅街にあらわれると大騒動が起こる。「人間のすみかに熊が現れた」と捉えられがちだが、熊の身に立てば「元はといえば熊のすみかにヒトが現れた」という言い分がもっともだろう。地上の生きものの中でももっとも暴力的な存在であるヒトは、熊をおそれるのあまり、あまりの仕打ちをしてきた。

 

 2004年 熊によるヒトの怪我 100人以上(2名死亡)熊 2,000頭以上捕殺
 2006年 熊によるヒトの怪我 145人(3名死亡)  熊 4,000頭以上捕殺
                     (『ツキノワグマ生態学』)

 

いくらなんでも、あまりでないか。ヒトに怪我をさせた熊とは関係のない熊が、「熊である」というひとつの理由から殺される。平気になっていいのか。平気でいられるか。
40度を超す夏。溶け出す永久凍土。アマゾンの森林火災。地球上の生きものたちが追い詰められ、生きる場を喪っている。奪われている。終末の様相を呈すニュースばかり接していると、あしたこの空に風は吹いてくるのか、雲はわくのか。虫は鳴いてるか、空に鳥は羽ばたくかとおののき、朝不安とともに部屋のカーテンをあけている。自明のことが自明でなくなる日の訪れを、どう迎えようというのか。破局へ向かう世界の中でいかに正気でいられるか。破局を止めるべく行動すること。そこにしか、正気を保つすべはないように思えるが、どうか。

来月6日から、多喜二を描いた舞台「組曲虐殺」(作・井上ひさし)がこまつ座/ホリプロによって再演される。井上さんが作中、多喜二にこう語らせる。

 

 絶望するにはいい人が多すぎる。
 希望を持つには、悪いやつが多すぎる。
 何か綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないもの
 だろうか。…いや、いないことはない。

 

生きものたちへの鎮魂が底に脈打つ作品を、祈りを込めてつくりあげたい。

f:id:furisakemireba:20190921133536j:plain

 

 

いのちのめぐる

夏の田んぼの畦道を朝な夕な歩いている。朝、ふと前の草むらにオニヤンマが低く止まっている。近づいてよく見ると生きながら仰向けにされたセミに乗りかかり、喰いにかかっていた。ミン、ミン、ミンとセミの必死が畦に鳴き渡る。手脚を振り回して抵抗するも構わずに、オニヤンマはセミの脚を1本、1本と喰っていく。か細く弱く、短くなるセミの鳴き声を聞き届けて、また歩みを進めた。
先では、アスファルトに横たわるハチの屍骸にぐるりと小さな砂が集められ円墳のようになっている。よく見ると幾匹ものアリが、そこへ砂を持ち寄ってくる。人から見れば砂だけど、アリからすれば岩のような大きさだろう。どうしてハチの周りに砂を積むのか、見当も付かない。以前、死んだミミズがアリに運ばれていくのを見つけた時も、ミミズは周到に積まれた砂に取り囲まれていた。朝に見たハチは、夕方には円墳だけを残しいなくなっていた。

水上勉がカエルのブンナの視点から生きものの食われ食ういとなみを書いた「ブンナよ、木からおりてこい」(新潮文庫)。

 ブンナは、やがて自分も、なにかに生まれ変わって生きるのだと思いました。
 そう思うと、かえるも、へびも、百舌も、雀も、みなおなじ仲間で、
 死んだらなにかに生まれかわってゆくのでしょう。
 へびは鳶のえさになったから鳶になりました。
 百舌もやっぱり鳶になったのでしょう。
 とすると、あの鼠さんは、ブンナになった。

 
この一節が、理屈ではなく実感をもって腑に落ちてくる齢になった。理屈はわかっていたのだけどと言いたい訳でない。理屈としてわかって実感としてわからないなんてことはない。実感がなければ理屈としてもわかっていないのだから。
お盆で親戚が家に集まった。朝方、5歳の甥と3歳の姪が寝ている私を起こしにくる。早く起きてもう朝だよ。早く起きてご飯だよ。揺すりさわぎ、ついには乗りかかって起こしにかかる。この景色をどこかで見た覚えがある。そう、30年も前に私が父母にしていたことだっけと、時空がゆがんで重なり合う。父の眠たそうな顔、母のしかめた顔。それでも、怒るといった素振りはひとつもなかったこと。こうして繰り返し繰り返し、人の大人は子どもに起こされ、子どもは大人になり誰かに起こされる日がくるのか。父母が怒らなかったことも、今ならすんなりとうなづける。

 
  一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり (「歎異抄」から)

 
親鸞の観ていた風景に実感がすこしずつ近づいていく。「一切の」というところ、「父母兄弟」というところにまだ距離がある。明け暮れの重なりにその距離の近くなることを期待する。言葉の方から寄ってくるのか、自分の方から進んでいくか。そんな不遜な恣意は捨ておいていい。どちらからということでなし、気づいたら実感があった。そんな風に明け暮れたい。

ことしも夏がおわる。

牛の見分けがつかない

 

 8月5日、6日と浪江町にある希望の牧場へお手伝いに行ってきた。昨秋来、9ヶ月ぶりに訪ねた牧場には274頭の牛が息づいていた。牧場長の吉沢さん、お姉さんともに元気だった。ジッとしてても汗が伝ってくる夏は、だからエサやりの作業が始まるのがとても早い。朝6時には吉沢さんの乗る重機が動き始めている。

もやし糟を与えりんご糟を与え藁を与える。おふたりとも重機の扱いは手馴れたもので、バケットに重たいフレコンバックを引っ掛けては牛たちのエサ場へ巧みに均して与えていく。「お手伝い」と言っても特別役立つことはなく、エサが行き渡らず食いっぱぐれた牛がいないか見て回る位のことだ。頭数は相変わらず多いが、牧場を支える人たちの弛まぬ努力があって牛は逞しく太り、元気だ。もやし糟、りんご糟、藁に加えて野菜くずやパイナップルの皮が都会から毎日のように運ばれてくる。

それらに牛糞が混じり合う牧場の独特の匂いが、夏の陽射しに蒸されて全身を浸す。すると必ず、8年前の夏が瞬間的に目の前に広がる。

 

2011年3月、原発事故が起きた福島県浜通りにたくさんの動物が取り残された。悲惨な光景がいくつも現れた。牛舎に行くと飼主が避難先から通っているかどうか、通っているとしてどの時期まで通っていたか、牛の姿からだいたい想像できた。すっかり骨になっていた牛は、事故直後から誰も通うことなく命を断たれたのだろう。うじがたかり腐り始めてる牛は最近までは飼主が来ていたのだろう。鳴き声をあげ、水を求めてくる牛は数日前には飼主が来ていたのだろう。

2011年夏の1日、ただ1度だけボランティアで牛舎に通う知人の手伝いをしたことがある。電気が止まった牛舎では自動的に牛に水を与える機械が使えず、近くの水道を探しては2リットルのポリタンク一杯に水を汲み牛たちの元へ運んだ。2リットルなどあっという間に1頭が飲み干してしまう。ある牛舎では10数頭もが生きていた。1頭に水を上げている間すべての牛が怒り、悲鳴を上げるように鳴きつづけた。「早くしろ、早くしろ」上げても上げても水は足りなかった。時間はまったく足りなかった。その日も今日のようにあつい、あつい一日だった。翌日も晴れ渡ったが、その日以来僕はそこに行くことはなかった。知人はひとりでそこに通いつづけた。

 その夏から、僕は肉という肉が苦手になった。出されれば、なるべくいただく。でも自ら好んで食べようとはしなくなった。肉を口にすると美味しいという感覚だけではすまない、説明しえない感情があわせてたちのぼってくる。美味しくないわけではない。ただ美味しいだけではすまなくなるので、結局欲しくならないのだ。魚は食べている。いずれ魚も何かをきっかけに食べなくなるかもしれない。それならそれでいい。一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べることを理想とした人もいる。

 

さて久しぶりの牧場で、やはり思い知ったことがひとつあった。牛の見分けがつかないのだ。そりゃあ9ヶ月ぶりだから、というだけでもない。福ちゃんやいちごなど、名をつけられた牛は一目でわかる。そりゃあそうだ、福ちゃんは部屋が決まっているしいちごは牧場でただ1頭のホルスタインだ。初めての人でも分かるようになっている。これでは分かるとは言えない。姿を見分け、声を聞き分け、彼らを感じ取る力がつかない。いつまでたっても1頭ずつの牛に興味自体が湧いてこない。牛を牛として眺めるのみで1頭ずつが見えてこない。毛づくろいのブラシを手に持って近づいていくと走り去る牛、尻尾を振って叩いてくる牛、静かにブラシさせてくれる牛など様々だ。みなそれぞれに違う。個性がある。でもそれが誰なのかが分からない。分からないままでもいいかと思っている節もある。なんせ274頭である。

 

作家の水上勉が『ものの聲ひとの聲』(小学館)で次のように書く。

 ものにはものの聲がある。その聲を聞くことのできる人は幸せである。聞くひまのない人は気の毒である。だが、どっちにしても、人間は、そういう耳を持っている。心があるからである。
 人は黙っていてもものをいっている。そのいっていることが分かる人は幸せである。分からない人は気の毒である。だが、どっちにしても人間は、そういう心を眠らせて生きるか、醒めさせて生きるか、どっちかだが、誰もがものの聲をきく耳を持っているはずである。

 

3年前の相模原事件で、被告は「意思疎通ができない人」云々ということを言った。気の毒な人である。しかし牛たちを前にした時の僕自身の聞く耳のなさは気の毒といえるものではないか。姿を見分ける力のなさはどうか。気の毒といえないか。人と牛は違うと僕は思わない。おなじ生きものなのだから違うといえる根拠がないと僕は思う。

「牛」としてしか眺めることのできない地点からどうして一歩を進めていけるだろう。1頭ずつの牛がいつになったら自分の中に立ち上がってくるだろう。

 

f:id:furisakemireba:20190805103216j:plain

f:id:furisakemireba:20190806122353j:plain

牛たち

f:id:furisakemireba:20190805121501j:plain

ウォーターカップ。8年前、あちこちの牛舎でこの水桶が空っぼでした。

f:id:furisakemireba:20190805103336j:plain

人の手が牛のいのちをつないでいます

 

石垣さんを推す

かつて中野重治は「弱い弱い人間の、強い強い誠意」と書いた。組織が右といったら右、組織が左といったら左。それではひとりひとりはいつまでも弱いままだ。自分で考え発言する、組織はそれを認める。むしろ後押しする。そうすることで個人も組織もしなやかに強くなる。

 

国会議員は党を代表するのでなく国民を代表する。党が増税というから増税。そんな議員ではどうにもならない。参議員宮城選挙区の石垣のりこさん(立憲民主党野党統一候補)は、たとえ党の見解(消費増税凍結)と自分の考え(消費税廃止)が異なっていても、その考えを引っ込めたり曲げたりせず主張し続けている。逆累進性の消費税は廃止、カネはあるところからとれ。ないところからとるな。真っ当だ。

国民代表というにふさわしいそんな姿勢に対して、党の考えと違う主張をすることが無責任だと苦情をもちこむが人が党内外にいるらしい。服のサイズに身体を合わせろと言われても、合わせられる方がどうかしてる。服のサイズに身体を伸び縮みさせる、軽業師顔負けの国会議員を長いこと見せられてきたせいだろう。

 

物分りのいい人は日々転向を繰り返す。行儀のいい人は他人の目ばかり気にしている。しかし日本の国会には、物分りのいい人や行儀のいい人ではなく、服に身体を合わせる人でもなく、ひとりになっても国民代表であろうとする人こそがふさわしい。

 

【7月17日夜・仙台駅前 石垣のりこ・山本太郎 街頭演説】
https://www.youtube.com/watch?v=G02WTDarw6U

 

f:id:furisakemireba:20190717200548j:plain

 

f:id:furisakemireba:20190717194734j:plain

 

f:id:furisakemireba:20190713165423j:plain



 

あらゆる当事者を国会へ

あらゆる当事者を国会へ。
れいわ新選組比例代表1位・舩後靖彦(ふなごやすひこ)さんの紹介映像をつくるため本日千葉県内で撮影に臨みました。舩後さんは難病のひとつであるALS(筋萎縮性側索硬化症)の当事者です。車いすで移動し、人工呼吸器と胃ろうを使っています。声が出せないため、会話は介助者が文字盤で読み取ったりご本人が口で噛むセンサーを用いてパソコンキーを操作し行います。

12年前の参議員選挙で、やはり車いすに乗った障害当事者が民主党から全国比例区に出馬しました。当時大学生のわたしはその選挙に参加させてもらい、候補者と全国をまわり障害者の自立生活運動を知りました。津々浦々で出会った、社会から目を向けられることなく虐げられている人たちが、自らの尊厳をかけ声を限りに訴えている姿に、生きる意味を見つけられずにいた大学生わたしは激しく揺さぶられ、救われました。
12年後のいまも当事者の声は強く、そして切実です。

舩後さんは、自身と同じような境遇にある人をサポートする活動をされてきました。インタビューでこれまでの歩みを尋ねると、若くして先に旅立っていった仲間のことを思い出されたようで、しばし言葉が止まりました。
時をおき、舩後さんはこう決意を述べました。
「日本の全患者を幸せにするために全力で働きます」。

あらゆる当事者を、国会へ送り出しましょう。

  

f:id:furisakemireba:20190709235924j:plain

f:id:furisakemireba:20190710000049j:plain

f:id:furisakemireba:20190710000113j:plain

 

古人に列なる

ここ数年、訃報を聞くことがつづいている。取材であった人。猫や犬。みな去っていってしまう。ニュースで初めてその名を知る人たち。ニュースで知るような時には、もう亡くなってしまっていたりする。去っていった人たちはどこへ行くのだろう。そしてそんなことを考えている自分もまた、いずれどこへ行くのだろう。

死ぬということはつくづく不思議なことだ。もうその人と会うことができないのだ。でも、記憶にはその人の姿は鮮やかに残っていて、死んだ気がしないということはいくらもある。それでもその人はもういないのだということを思考でたどると、こんなに鮮やかなのに、と余計に悲しくなってくる。

どこへ行ってしまったのだろう。自分はどこへ行くのだろう。その先に何があるのだろう。

森田童子は「たとえばぼくが死んだら そっと忘れてほしい」と歌う。そっと忘れてほしいというところに共感する。

八木重吉は「雨があがるようにしずかに死んでいこう」と詠む。しずかに死んでいこうというところに百年の知己を見る。

だれにも苦境を知られず世を去っていった人たちの顔が頭を離れない。昨日だって知っていたようでいて、実際はきょうニュースでその死を初めて知ったのだったりする。その人たちはそっと忘れてはいけないし、しずかに死んでいこうどころではない最期だっただろうことを想像する。死んだ後に出会った人のその顔も名をも、わたしたちは自らの出会いの内にして、きょうをともに生きていく。

死んだ先のことは知りがたく、はかりがたい。生きているとはどんなことだろう?みんな、いずれは去っていってしまう。そして古人につらなる。それがわたしに救いとして感じられる。
ひと足もふた足も早く古人につらなっていった人たちの面影を、いま思い返している。

生きねばならぬ。

映画「道草」公開のご案内

新年あけましておめでとうございます。昨年はたくさんの方のお力添えにより映画「道草」が完成し、各地で試写会も開かせていただくことができました。応援して下さったすべての方に心より感謝申し上げます。

2月の新宿ケイズシネマでの公開を皮切りに、全国劇場公開がはじまります。現在、全国11館での公開が決まっています。
 
 2月23日(土)〜 新宿ケイズシネマ
 3月9日 (土)〜 名古屋シネマスコーレ
          静岡シネ・ギャラリー(先行上映日、本公開は30日〜)
 3月23日(土)〜 大阪・シネ・ヌーヴォ
          京都シネマ
 3月30日(土)〜 横浜ジャック&ベティ
           静岡シネ・ギャラリー
 4月12日(金)〜 チネ・ラヴィータ
 4月13日(土)〜 神戸アートビレッジセンター
 時期未定    シネマチュプキ・タバタ 
          伊勢進富座
           福井テアトルサンク

各劇場の情報入りチラシもでき、いまわたしたちは一緒に映画「道草」を応援し、盛り上げてくださる方を求めています。「重い」と言われる知的障害のある方が、こんな風に自然に道草しながら地域に暮せるということを全国へ伝えていくため、ぜひお力をお貸しいただけませんでしょうか?
チラシ・ポスターの配布や前売券の委託販売、ご購入などご協力いただけます方は下記までお問合せください。ご連絡お待ちしています!

映画「道草」上映委員会 
TEL:080-3457-8833  FAX:087-883-6570 info☆michikusa-movie.com(☆を@に変えてください)
https://michikusa-movie.com/

「道草」予告篇です。ぜひご覧ください。