古人に列なる

ここ数年、訃報を聞くことがつづいている。取材であった人。猫や犬。みな去っていってしまう。ニュースで初めてその名を知る人たち。ニュースで知るような時には、もう亡くなってしまっていたりする。去っていった人たちはどこへ行くのだろう。そしてそんなことを考えている自分もまた、いずれどこへ行くのだろう。

死ぬということはつくづく不思議なことだ。もうその人と会うことができないのだ。でも、記憶にはその人の姿は鮮やかに残っていて、死んだ気がしないということはいくらもある。それでもその人はもういないのだということを思考でたどると、こんなに鮮やかなのに、と余計に悲しくなってくる。

どこへ行ってしまったのだろう。自分はどこへ行くのだろう。その先に何があるのだろう。

森田童子は「たとえばぼくが死んだら そっと忘れてほしい」と歌う。そっと忘れてほしいというところに共感する。

八木重吉は「雨があがるようにしずかに死んでいこう」と詠む。しずかに死んでいこうというところに百年の知己を見る。

だれにも苦境を知られず世を去っていった人たちの顔が頭を離れない。昨日だって知っていたようでいて、実際はきょうニュースでその死を初めて知ったのだったりする。その人たちはそっと忘れてはいけないし、しずかに死んでいこうどころではない最期だっただろうことを想像する。死んだ後に出会った人のその顔も名をも、わたしたちは自らの出会いの内にして、きょうをともに生きていく。

死んだ先のことは知りがたく、はかりがたい。生きているとはどんなことだろう?みんな、いずれは去っていってしまう。そして古人につらなる。それがわたしに救いとして感じられる。
ひと足もふた足も早く古人につらなっていった人たちの面影を、いま思い返している。

生きねばならぬ。