あやふやな私。あやふやな私たち。

このところ読んだ本、読みはじめた本の言葉から。

 

『ズレてる支援!』(寺本晃久、岡部耕典、末永弘、岩橋誠治 生活書院、2015年)
 
まだ、まえがきしか読んでないのにまえがきだけで十分、食いつきました。

 「私の前にいるのその人の姿が、いつものその人の姿ではないのですが、私の見ている姿がすべてだと私が勘違いしていることもあります。それでも勘違いしないと苦しいし、逆に何もできなくなるから、まずはそこから出発したいってこともあるんだけれど。
 何年もの時間が経ってから、私は誤解していたんだと気がつくことがあります。およそ支援の営みは、そもそもズレているのだと。何がズレているのか、どこがどの程度ズレているのかは、しかしその渦中にいるときにはなかなかわからないものかもしれません。」(寺本晃久さん、まえがきより)

 人の感覚、そのときの感情はあやふやであること。また、人のあつかう論理、理屈もまたあやふやであると自覚すること。それはとっても大切なことと、思っています。じゃあお前は自覚できてるのか?と問われれば、自覚できてるか心もとない!と胸を張っちゃう。でも、自覚しなきゃないぞ!という気持ちがあることへの自覚はあるつもりでいるのです。

 自分自身の「そのときの感覚」を、1歩も2歩も引いて俯瞰的に見て(見た気になって)、その感覚のあやふやさ、不安定さを前提にしてものを考える。揺れるブランコに乗って、高いところまでぐーんと進む。その進んだ先の高いところで一瞬止まる、その時みる一点は、揺れてるブランコのなかで見えている、ひとつの視点に過ぎないこと。
自分の感覚と論理くらい、誰だって信頼したい。でもその信頼は、抑制的であっていい。だって、あやふやなんだから。
 
 そんな思いを芋づる式に引きずり出してくれるまえがき。

 『ズレてる支援!』のまえがきが、あやふやな「私」への自覚を呼び覚ましてくれたとしたら、こちらの本はあやふやな「私たち」(それは、「場」と言い換えてもいい)への自覚を与えてくれます。
 
 『忘れられた日本人』(宮本常一岩波文庫1984年)

 明治の頃の、村落共同体の寄り合いのあり方に触れた一節から。

 「そういう場(引用者注:寄りあい)での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方も話しやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。」(「対馬にて」、より)

 論理づくめで話を進めて行くと、本来は行く道と来る道が同じ道になるはず。
 でも、人間だからそんな風には問屋が卸さないのであって、傍から見ていて行く道と来る道がまるで違っていても、本人は同じ道を来たつもりになってることはよくあること。周りが”そりゃあ違うよ”って言って本人が理解すればそれで終わりなのだけど、そうはいかないこともある。だって、あやふやな私なんだから。そういうことは特別な人の特別なことじゃない。だって、みんな、あやふやな私なんだから。

 そして、昔の智恵。
 ある話し合いの席で、みんなが勝手に自己主張をしている時に。

 「『皆さん、とにかく誰もいないところで、たった一人暗夜に胸に手をおいて、私は少しも悪いことはしておらん。私の親も正しかった。祖父も正しかった。私の家の土地はすこしの不正もなしに手に入れたものだ、とはっきりいいきれる人がありましたら申し出て下さい』といった。するといままで強く自己主張してた人がみんな口をつぐんでしまった。それから話が行きづまると『暗夜胸に手をおいて…』と切り出すと、たいていの話のいとぐちが見出されたというのである。」(「村の寄りあい」、から)

 
 何だかヨハネによる福音書「あなたがたのうちで罪のない者が、まず彼女に石を投げなさい」の話みたい。

 寄りあいにての話、つづけて言うには、

 「他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。」
 (中略)
 「こういう世話役は人の行為を単に善悪のみでみるのではなく、人間性の上にたち、人間と人間との関係を大切に見ていく者でなければならない。そしてそういう役割は(中略)老人にして初めて可能なことであった。」
 
 人の非をあばき、顧みて他を言うことは、楽です。また、ちょっとばかり楽しくもある。自分を棚の上に乗っけて世間を見渡せば、どんなことでも言えてしまうのかもしれない。でも、そればっかりでは、人の世は実にさびしい。また、まわらなくもなる。
 
 昔の世話役のようにはうまく話をまとめられなくても、また、老人になるまで待たなくても、あやふやな私を自覚して、あやふやな私たちを理解する人がひとりずつ増えていけば、もっと心地よい世の中にならないかしら。

 私も私たちも、あやふやな存在であることは悲しいこと。そして悲しいことであると同時に、おなじくらいに愛しいことと思えます。
 
 柳に風折れなし。

平成乙未 神無月四日
宍戸 大裕